翔鶴 (空母)

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翔鶴

1941年8月23日横須賀にて(竣工直後)。
1941年8月23日横須賀にて(竣工直後)。

基本情報
建造所
横須賀海軍工廠[1]
運用者
 大日本帝国海軍
艦種
航空母艦[2]
級名
翔鶴型
建造費
予算 84,496,983円[3]
母港
横須賀[4]
艦歴
計画
昭和12年度(1937年)、マル3計画[5]
起工
1937年12月12日[1]
進水
1939年6月1日[1]
竣工
1941年8月8日[1]
最期
1944年6月19日沈没
北緯11度40分 東経137度40分 / 北緯11.667度 東経137.667度 / 11.667; 137.667 (沈没地点)
除籍
1945年8月31日[6]
要目(特記無きは計画[7]
基準排水量
25,675英トン[8]
公試排水量
29,800トン[8]
満載排水量
32,105.1トン[9]
全長
257.5m[8]
水線長
250.00m[8]
垂線間長
238.00m[8]
水線幅
26.0m[8]
深さ
23.00m(飛行甲板まで)[8]
飛行甲板
長さ:242.2m x 幅:29.0m[10]
エレベーター3基[11]
吃水
公試平均 8.87m[8]
満載平均 9.32m[8]
ボイラー
ロ号艦本式缶(空気余熱器付[10])8基[12]
主機
艦本式タービン(高中低圧[10])4基[12]
推進
4軸 x 300rpm、直径4.200m[12]
出力
160,000hp[8]
速力
計画:34.0kt[8]
1944年5月調査:34.37kt[13]
燃料
計画:重油 5,000トン[8]
1944年5月調査:重油 5,070トン[13]
航続距離
計画:9,700カイリ / 18ノット[8]
1944年5月調査:12,251カイリ / 18ノット[13]
乗員
計画乗員 1,660名[14]
搭載能力
九一式魚雷 45本[15]
爆弾 800kg90個、250kg306個、60kg540個[16]
飛行機用軽質油 745トン[9]
兵装
新造時
40口径12.7cm連装高角砲8基[17]
25mm3連装機銃12基[17]
爆雷6個[15]
最終時[18]
40口径12.7cm連装高角砲8基
25mm3連装機銃18基
25mm単装機銃(橇式)14挺
装甲
計画[19]
機関室舷側 46mmCNC鋼
同甲板 65mmCNC鋼、25mmDS鋼
弾火薬庫舷側165mmNVNC鋼、50DS鋼
同甲板132mmNVNC鋼、25mmDS鋼、
搭載艇
12m内火艇3隻、12m内火ランチ3隻、8m内火ランチ1隻、9m救助挺2隻、6m通船1隻、13m特型運貨船2隻[11]
搭載機
計画[16]
零式艦上戦闘機18+2機
九九式艦上爆撃機27+5機
九七式艦上攻撃機27+5機
計 常用72機、補用12機
1941年12月7日保有機
零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機27機
九七式艦上攻撃機:27機[20]
最終時
常用74機、偵察3機
1944年6月19日保有機
零式艦上戦闘機:34機
天山艦上攻撃機:12機
(偵察用:3機)
彗星艦上爆撃機:18機
二式艦上偵察機:10機
九九式艦上爆撃機:3機
レーダー
21号電探1基[18]
ソナー
仮称九一式四号探信儀1組(後日装備)[21]
その他
着艦識別文字: シ
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翔鶴(しょうかく/しやうかく)は、大日本帝国海軍の航空母艦(空母)[22][23]。翔鶴型航空母艦の1番艦[24]。1944年6月19日にマリアナ沖海戦で撃沈された。




目次





  • 1 特徴

    • 1.1 艦名


    • 1.2 構造



  • 2 歴史

    • 2.1 建造


    • 2.2 第一段作戦

      • 2.2.1 真珠湾攻撃


      • 2.2.2 インド洋作戦



    • 2.3 第二段作戦

      • 2.3.1 珊瑚海海戦


      • 2.3.2 修理


      • 2.3.3 第二次ソロモン海戦


      • 2.3.4 南太平洋海戦



    • 2.4 1943年


    • 2.5 マリアナ沖海戦



  • 3 年表


  • 4 艦長


  • 5 同型艦


  • 6 脚注


  • 7 参考文献


  • 8 関連項目




特徴


翔鶴は大和型戦艦1番艦大和、2番艦武蔵と共にマル3計画にて建造され、大和とほぼ同時期に竣工した。アメリカのエセックス級やイギリスのイラストリアス級と同様、ワシントン海軍軍縮条約終了後に設計建造されたため、必要かつ十分な装備を持つ大型空母として完成した[25]
翔鶴型空母2番艦瑞鶴との作戦行動時には翔鶴が損害を受けることが多かった[26][27]。真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、ろ号作戦等に参加するなど日本海軍機動部隊の主力空母として活躍したがマリアナ沖海戦で撃沈された[28]



艦名


翔鶴(初代)は、江戸幕府および明治政府の外輪式蒸気船翔鶴丸である[29]


翔鶴(2代目)は初期の航空母艦で、1921年(大正10年)2月17日に命名された[30]。3月3日に航空母艦として類別[31]
日本海軍が『航空母艦』という艦種をもうけたのは1920年(大正9年)4月1日のことであり[32]、空母として最初に類別されたのは若宮である[33]。翔鶴(2代目)は書類上、日本海軍2隻目の空母となった[31]
1921年(大正10年)10月13日、空母鳳翔の命名および軍艦籍加入が通達され[34][35]、同日附で航空母艦に類別[36]。同年11月13日に進水、1922年(大正12年)12月27日に竣工[37]。書類上は若宮、翔鶴(二代目)に続く3番目の航空母艦となった[36]


翔鶴(2代目)は、浅野造船所での建造を予定していた[38]もので、鳳翔の改良型であった。
1923年(大正12年)8月、ワシントン海軍軍縮条約により天城型巡洋戦艦2隻(天城、赤城)を空母に改造することになり、割り当て排水量の関係から翔鶴(2代目)の建造は中止された[39]
その後9月1日の関東大震災で損傷した天城が廃艦となると、代艦として加賀型戦艦1番艦加賀の空母改造が決まった[40]
11月19日、2隻(加賀、赤城)の空母改造が正式に通達された[41]。同日附で翔鶴(2代目)の建造中止が正式に発表され[42]、2隻(加賀、赤城)と入れ替わる形で除籍された[43][44]


マル3計画で建造された翔鶴型航空母艦1番艦翔鶴(本艦)は空母としては2代目、『翔鶴』の艦名を持つ軍艦としては3代目となった。



構造


翔鶴型航空母艦と大和型戦艦はマル三計画において同時に計画・建造されており、技術的にも類似点が多い[45]。翔鶴は球状艦首(バルバス・バウ)を採用した日本海軍の軍艦の中では最初に竣工した艦であり(起工は大和が最初)、最大速力約34ノットの高速性を得た[45][46]。機関出力は16万馬力で、大和型戦艦をも上回る(翔鶴型は罐を8基搭載。大和型は罐を12基搭載)[45]。防御能力についても、機関部や弾薬庫などの艦主要部は巡洋艦の砲撃に十分耐えられるよう装甲が施され、炸薬量450kg の魚雷にも耐えうる水雷防御が施されるなど充実した性能を持つ。しかし、英空母や次級の大鳳型航空母艦のように飛行甲板の装甲は有しておらず、500kg爆弾が命中すると航空機の運用ができなくなる。また、ダメージコントロールは、ミッドウェー海戦での4空母損失の教訓から、可燃物の撤去や可燃性の塗料などを使用しないなどの運用上の工夫が行われていた。


翔鶴型は当初設計において艦橋を左舷中央に配置する予定であった[47]。左舷中央配置は空母赤城・飛龍で採用されたが用兵側から不具合が指摘されている[47]。飛龍型の場合は、建造開始後に赤城型左舷中央配置艦橋の問題が判明したものの、建造が進んでいたため、左舷中央配置艦橋のまま配置された[47]。だが、翔鶴型はこの問題が浮上したのが起工後ではあるが進水前段階であったため、右舷前方配置艦橋への設計変更が可能であった[47]。悪天候時の艦の動揺という点では従来空母(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)に比べてやや難があったが[48]、航続力については申し分ないと評価されている[49]。飛行甲板の面積は加賀とほぼ同等(翔鶴型242m×29m、加賀249×30.5m)、だが同時期のエセックス級航空母艦(翔鶴型とほぼ同排水量)の飛行甲板面積より小さい[46]


翔鶴と瑞鶴は識別が困難(搭乗員でさえ着艦を間違えた)であるが、艦橋直後のメインマストの中途に拡声器(スピーカー)を備えているのが瑞鶴である。ただし、真珠湾攻撃時には双方ともメインマストの中途にスピーカーを備えており、昭和17年末には瑞鶴がこのスピーカーを艦橋左壁に移設しているため、艦橋直後のメインマストのスピーカーの有無を両艦の識別点にできるのは、ごく短期間のことである。尚、飛行甲板前部上に対空識別記号として、カタカナで翔鶴は“シ”、瑞鶴は“ス”と記載されていた。



歴史



建造


1937年(昭和12年)に発表された第三次艦船補充計画(通称マル3計画)によって、大和型戦艦や陽炎型駆逐艦と共に翔鶴は計画され、同年12月12日に横須賀工廠にて建造が始まった[50][51]。同計画1号艦が(大和)、2号艦(武蔵)、3号艦(翔鶴)、4号艦(瑞鶴)、5号艦が水上機母艦 (甲標的母艦)日進である。長門型戦艦2番艦陸奥と同じガントリー船台での建造だった[52]
1939年(昭和14年)5月16日、翔鶴(シヤウカク)と命名[22]。同日附で艦艇類別等級表に登録[53]
同年6月1日、伏見宮博恭王、米内光政海軍大臣、長谷川清横須賀鎮守府司令長官立会いの元で進水[54]。ところが進水式式典中に大雨となり、正装の拝観者達は右往左往することになった[52]。また関係者には記念絵葉書と硝子製翔鶴艦型文鎮が配られている[55]。当時の横須賀工廠では、空母へ改造予定の剣埼型潜水母艦2番艦高崎も停泊していた[56]


1940年(昭和15年)5月20日、日本海軍は澄川道男大佐(フランス日本大使館附武官、海軍艦政本部造船・造兵監督官、海軍航空本部造兵監督官)を翔鶴艤装員長に任命した[57]。5月23日、翔鶴艤装員事務所を設置する[58]
10月15日、澄川(翔鶴艤装員長)は水上機母艦瑞穂艦長[59]へ転任する(後日、空母飛鷹艦長[60]、空母大鳳初代艤装員長[61]等を歴任)。後任の翔鶴艤装員長は、呉海軍航空隊司令城島高次大佐となる[62]
11月15日、城島(翔鶴艤装員長)は横須賀海軍工廠で潜水母艦から空母へ改造中の祥鳳(剣埼)艦長を兼務することになった[63]。12月27日、翔鶴と共に横須賀海軍工廠で建造されていた空母瑞鳳(元潜水母艦高崎)が完成した[56]


1941年(昭和16年)4月17日、城島高次大佐は制式に翔鶴艦長(初代)に任命され、引き続き剣埼(祥鳳)艦長も兼務する[64]。7月5日、翔鶴艤装員事務所を撤去[65]
8月8日に竣工した[50]。横須賀鎮守府籍[66]。当時の艦幹部達は、戦艦にくらべ裏方と見做されていた空母への配属に不満を抱いていたという[67]。同日附で城島大佐(翔鶴艦長、剣埼艦長)は両艦艦長兼務を解かれ、後任の剣埼艦長は扶桑型戦艦2番艦山城艦長小畑長左衛門大佐(山城艦長と兼務)となった[68]
8月23日、翔鶴は処女航海を実施、鹿児島方面へ向かった[69]。8月26日、第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将は旗艦を空母赤城から翔鶴に変更した[70]。赤城は横須賀に帰投した[71]


9月1日、第一航空戦隊所属の第7駆逐隊より吹雪型駆逐艦2隻(朧、漣)が除籍され[72]、朧は第五航空戦隊に編入された[73][74]。同日附で第五戦隊司令官として原忠一少将が任命された[75]。原司令官は旗艦を春日丸級特設航空母艦1番艦春日丸(大鷹)に指定した[76]
9月8日、第一航空艦隊旗艦は翔鶴から赤城に戻った[77]
9月10日、翔鶴は第五航空戦隊旗艦となった[78]


9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴、瑞鶴)は第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪)と共に第一航空戦隊を編制し[79]、それまでの一航戦(赤城、加賀)は第51駆逐隊(白雲、薄雲)と共に第五航空戦隊となる予定であった[80][81]。しかし旗艦として使用する予定であった完成直後の本艦を訪れた第一航空艦隊司令部は、「翔鶴型の飛行甲板は他の空母と比べて著しく短い」「艦橋付近の飛行甲板の幅が狭く、艦上機の運用に不便」と評価を下しており、その影響もあってか編成替えの予定は中止された[82]
なお第一航空艦隊(通称『源田艦隊』)航空参謀源田実中佐の盟友淵田美津雄少佐は、真珠湾攻撃航空隊指揮官の密命を受け、8月25日附で赤城飛行隊長に任命されている[83]


9月25日、翔鶴型2番艦瑞鶴が竣工した[84]。春日丸と入れ替わるように第五航空戦隊に編入され、また漣も第7駆逐隊に復帰した[85]
9月27日、陽炎型駆逐艦19番艦秋雲が竣工している[86]、同日附で第五航空戦隊に編入された[87]
11月14日、五航戦旗艦は翔鶴より瑞鶴に変更された[88]



第一段作戦



真珠湾攻撃




真珠湾攻撃へ向かう翔鶴の艦載機。



第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、秋雲)は第一航空艦隊(南雲機動部隊)に所属して真珠湾攻撃に参加した。
艦上攻撃機隊48機が宇佐基地、艦上爆撃機隊54機が大分基地、艦上戦闘機隊36機は佐世保海軍航空隊の大村飛行場を基地として[89]、離着艦訓練や錦江湾、志布志湾、佐伯湾での訓練を行い、11月16日佐世保基地にいた加賀以外の第一航空艦隊(南雲機動部隊)空母5隻は佐伯湾にて艦載機部隊を各陸上基地から離陸させて着艦収容した。


その時の佐伯湾にはハワイ作戦に参加するほとんどの24隻の艦船が集まっており、翌17日午後に山本五十六連合艦隊司令長官の視察を受けた。各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ、第五航空戦隊は豊後水道を他艦とは逆に北上して別府湾で停止した。
そして日付が19日になった午前0時に再び動き出して艦隊が最終集結する千島列島の択捉島単冠湾を目指し、艦隊集結予定日通り11月22日に単冠湾へ入った[90]。南雲機動部隊の戦力は、空母6隻(第一航空戦隊《赤城、加賀》、第二航空戦隊《蒼龍、飛龍》、第五航空戦隊《翔鶴、瑞鶴》)、第三戦隊第1小隊(比叡、霧島)、第八戦隊(利根、筑摩)、警戒隊(軽巡《阿武隈》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》、第18駆逐隊《霞、霰、陽炎、不知火》、第五航空戦隊《秋雲》)、潜水艦3隻、油槽船9隻であった。各艦打ち合わせと兵器整備の後、11月26日南雲機動部隊は単冠湾を出港し艦列を連ね一路ハワイ・真珠湾へと向かった[91]


翔鶴からの真珠湾攻撃参加機


第一次攻撃隊


99艦爆26機=指揮官:飛行隊長高橋赫一少佐、零戦5機=指揮官:分隊長兼子正大尉

第二次攻撃隊


97艦攻27機=指揮官:分隊長市原辰雄大尉


艦爆1機が未帰還となり[92]、搭乗員2名が戦死した[93]。帰路ではミッドウェー島砲撃にともなうミッドウェー島空襲や、ウェーク島の戦いに伴うウェーク島空襲に参加する予定もあったが、前者は中止され、後者は第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)が担当することになった[94]。父島南西海面で第二補給部隊、第21駆逐隊(初春、子日、若葉、初霜)、第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)と合流[95]。補給を実施したのち、12月24日になって呉軍港へ帰投する[96]
しかし真珠湾攻撃作戦から帰投すると、12月31日付で翔鶴・瑞鶴搭載の常用機定数は艦上戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機各18機に削減されて二航戦(蒼龍、飛龍)と同じとなり、投射重量は3分の2となった[97]


1942年(昭和17年)1月5日、日本を出撃して1月14日トラック泊地着、17日発。1月20日には空母4隻(赤城、加賀、瑞鶴、翔鶴)でラバウル空襲を敢行する[98]。ラバウル空襲後、五航戦(瑞鶴、翔鶴)は主隊と分離してパプアニューギニアへ向かう[98]。21日、特別空襲隊(瑞鶴、翔鶴、筑摩、不知火、陽炎、霞、霰)として東部ニューギニアの拠点(ラエ、サラモア、マダン)を空襲するなど、南方方面で活動した[99]。また空襲を終えて母艦へ帰投中の零戦が、遭遇した連合軍飛行艇を撃墜、飛行艇生存者を第六戦隊の重巡青葉が収容している[100][98]
一連のラバウル攻略作戦支援を終えると、今度は基地航空部隊の同地進出を支援する[101]。随伴艦から筑摩、陽炎が外れ秋雲を加えたのち、ラバウル進出予定の第24航空戦隊所属九六式艦上戦闘機16機の空輸を命じられた[101]。九六艦戦をトラック泊地からラバウルまで直接空輸することは難しかった為にとられた措置である[101]。五航戦(翔鶴、瑞鶴)はトラック泊地より飛来した九六艦戦16機(各艦8)を収容[101]。天候不良のため目的地をカビエンに変更したが、空輸作戦は成功した[102]
1月29日、3隻(翔鶴、陽炎、浜風)はトラック島を出港、2月3日に横須賀へ到着した[103]。一連の作戦で艦爆1機を喪失(搭乗員2名戦死)[104]、飛行機整備員(プロペラ接触事故)と機関科勤務兵(熱射病)で各1名が戦死した[105]



インド洋作戦



3月7日、翔鶴は横須賀を出撃してセレベス島へ向かう途中、アメリカ軍機動部隊出現の急報により日本東方海面に進出したが会敵せず、3月16日、横須賀に戻った[106]。翌日出港、3月24日にセレベス島スターリング湾に到着、南雲機動部隊に合流した[107]。3月27日、スターリング湾を出港してインド洋に進出し4月5日にはセイロン島コロンボ港を空襲しているが、翔鶴所属艦爆1機が未帰還となった[108]


南雲機動部隊のインド洋進出に伴って生起したセイロン沖海戦では、五航戦(翔鶴、瑞鶴)を含む日本艦隊は空母ハーミーズ(HMS Hermes, 95)、重巡洋艦コーンウォール(HMS Cornwall, 56)、ドーセットシャー(HMS Dorsetshire, 40)、豪駆逐艦ヴァンパイア(HMAS Vampire, D68/I68)などを共同で撃沈した。翔鶴艦爆隊のハーミーズに対する爆撃命中率は、18機中13発(72%)を記録[109]。だが索敵網の薄さからイギリス軍東洋艦隊主隊を発見できず、大戦果を収める機会を逃がしている。4月10日、駆逐艦2隻(秋雲、朧)は第五航空戦隊から除かれた[110]



第二段作戦



珊瑚海海戦




損傷しながらもレキシントン機の爆撃を回避する翔鶴。




被弾した翔鶴



1942年(昭和17年)1月19日、大本営海軍部は山本五十六連合艦隊司令長官にラエ・サラモア・ツラギ・ポートモレスビーの攻略を指示、これを受けて南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官(旗艦鹿島)は、3月にラエ・サラモア、4月にツラギ・ポートモレスビーを攻略する計画を示した[111]。3月10日、ラエ、サラモアをアメリカ軍機動部隊が空襲し、損傷艦が続出(ラエ・サラモアへの空襲)[111]。ポートモレスビー作戦は1ヶ月近く延期された[111]。これはポートモレスビー攻略部隊は、同基地航空部隊とアメリカ軍機動部隊の双方に対処せねばならぬことを意味し、南洋部隊(第四艦隊)所属の軽空母1隻(祥鳳)では対処しきれず、南洋部隊は連合艦隊に有力な空母部隊の派遣を強く要望する[112]。空母加賀はパラオで座礁した損傷修理のため内地に帰投しており、4月中の派遣は困難と見られていた[112]。その後のミッドウェー作戦実施予定に鑑み、ポートモレスビー攻略作戦は5月上旬実施に決定する[113]。そこで、南洋部隊の従来戦力(第六水雷戦隊、第六戦隊、第十八戦隊、、第十九戦隊、鹿島、祥鳳等)に加えて、インド洋作戦に参加していなかった加賀及び第五戦隊(妙高、羽黒)、水上機母艦瑞穂、第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)等を投入する事がきまる[114]
ところが、日本軍基地航空隊は第二十五航空戦隊しか配備されず、大型空母の加賀でも要求される任務に対処できない見込みとなった[114]。第四艦隊は第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)の派遣を希望したが、連合艦隊は第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)の派遣を決定した[114]。この編成替えには、一航戦や二航戦に対し技量で劣る五航戦に実戦経験を積ませ練度向上を狙うという意図もあった[114]。また、MO機動部隊の戦力を空母3隻(瑞鶴、翔鶴、祥鳳《戦闘機のみ搭載》)とすることも検討されたが(祥鳳側も希望した)、第四艦隊司令部は輸送船団の援護を優先し、同艦に船団の直接護衛を命じた[115][116]


以上の作戦方針により、インド洋から帰投途中であった4月12日、第五航空戦隊、第五戦隊、第27駆逐隊の南洋部隊編入が発令された(4月18日附)[114]。五航戦は4月14日にシンガポール沖で他の空母と別れ、駆逐艦3隻(秋雲、萩風、舞風)とともに台湾の馬公に向かった[117]。馬公には4月18日に到着、正式に第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)が五航戦の指揮下に入る[110]。同日には日本本土初空襲(ドーリットル空襲)があった[115]
4月19日、補給を終えた五航戦は第27駆逐隊とともに出港して北上[115]。だが、同日中に元の部署への復帰命令があったためトラックへと向かい、4月25日に到着した[115]。そして第五航空戦隊、第五戦隊、第7駆逐隊、第27駆逐隊、油槽船東邦丸で『MO機動部隊』が編成された[115]。編成時の第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)の搭載機は、翔鶴計54機(艦戦17、艦爆21、艦攻16)・瑞鶴計63機(艦戦20、艦爆22、艦攻21)、2隻で計117機であった[115]。4月中旬には暗号解読により日本軍の作戦を察知していたアメリカ軍は、ポートモレスビー周辺に戦力を集中する[118][119]。そして空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)を基幹とする第17任務部隊(司令官フランク・J・フレッチャー少将:空母2、重巡7、軽巡1、駆逐艦13、水上機母艦1、油槽船2)を迎撃に向かわせた[120]。エンタープライズ、ホーネットは東京空襲を実行したため真珠湾で補給を行う必要があり、海戦が長引いた場合には珊瑚海へ投入されることになった[121]


5月1日、MO機動部隊(翔鶴、瑞鶴、時雨、白露、有明、夕暮)はトラックを出撃した[122]。ラバウルへ零戦9機を輸送するため南下したが悪天候に見舞われ、5月3日には翔鶴の零戦1機が海中に転落した[123]。5月7日朝、翔鶴の索敵機はアメリカの油槽艦ネオショー(USS Neosho, AO–23)を米空母と誤認して報告[124]。日本軍攻撃隊78機(瑞鶴37機《艦戦9・艦爆17・艦攻11》、翔鶴41機《艦戦9・艦爆19・艦攻13》)はネオショーと護衛駆逐艦シムス(USS Sims, DD-409)を撃沈したが、周辺の敵機動部隊を捜索したため数時間を費やした[124]。また瑞鶴艦爆1機が撃墜された[124]。この間にMO攻略部隊主隊(青葉、加古、衣笠、古鷹、祥鳳、漣)がアメリカ軍機動部隊の空襲を受け、祥鳳沈没という損害を出した[125]。翔鶴索敵機の偵察員は補欠予備員で、正規偵察員は腹痛のため出撃できなかったという[126]。2機の翔鶴索敵機は帰投の際に機位を失って母艦に戻れずインディスペンサブル礁に不時着、翌日になり機動部隊より派遣された有明に救助された[124]


ネオショーへの攻撃を終えた飛行隊を収容したのち、MO機動部隊は『本当の米軍機動部隊の位置』に向けて西進を開始、五航戦司令官原忠一少将は薄暮攻撃を企図する[127]。技量優秀者を選抜[127]。攻撃隊27機(翔鶴12機《艦爆6・艦攻6》、瑞鶴15機《艦爆6・艦攻9》)を出撃させたが、米艦のレーダーに捉えられた[128]。これに誘導された戦闘機F4Fワイルドキャットに襲撃されて艦攻隊は大損害(翔鶴艦攻3、瑞鶴艦攻5)を受けた[129]。翔鶴艦攻のうち1機(萩原努大尉機)は翔鶴附近まで帰還していたが、最終的に行方不明となっている[130]。また艦爆隊は爆弾を捨てて帰投中に、米空母に着艦しかけるアクシデントもあった[131]。この時、対空砲火で瑞鶴艦爆1機を喪失[132]。帰投した攻撃隊は17機(翔鶴8機《艦攻2・艦爆6》、瑞鶴9機《艦攻4・艦爆5》)であった[129]。翔鶴搭乗員戦死者は9名であり[133]、5月7日は翔鶴にとって不運の日となった[134]


5月8日の珊瑚海海戦は、ほぼ互角の戦力をもつ日米機動部隊の正面対決となった[135][136]。朝、MO攻略部隊より第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)が合流[137]。空母2隻(瑞鶴、翔鶴)、重巡4隻(第五戦隊《妙高、羽黒》、第六戦隊《衣笠、古鷹》)、駆逐艦5隻(第7駆逐隊《潮、曙》、第27駆逐隊《時雨、白露、夕暮》)でアメリカ軍機動部隊との決戦に臨んだ。午前6時以降の索敵では、翔鶴索敵機(機長:菅野兼蔵飛行兵曹長、操縦:後藤継男一等飛行兵曹、電信員:岸田清次郎一等飛行兵曹長)がアメリカ軍機動部隊を発見[138][139]、同機は燃料切れを覚悟で日本軍攻撃隊を誘導し、未帰還となった[138][140]。3名は山本五十六連合艦隊司令長官からその功績を認められ、死後二階級特進・金鵄勲章を授与されている[138]。翔鶴飛行隊長高橋赫一が指揮する日本軍攻撃隊69機(瑞鶴31機《艦戦9・艦爆14・艦攻8》、翔鶴38機《艦戦9・艦爆19・艦攻10》)は空母レキシントン(USS Lexington, CV-2)を撃沈、ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5)撃破という戦果をあげた[141]。翔鶴隊は主にレキシントンを、瑞鶴隊は主にヨークタウンを攻撃している[141]。フレデリック・C・シャーマン(レキシントン艦長)は、「(翔鶴隊の攻撃は)みごとに協調が取れていた」と回想している[142]
一方、対空砲火とアメリカ軍機動部隊上空の空戦で計20機(瑞鶴5機《艦爆2・艦攻3》、翔鶴15機《艦戦3・艦爆7・艦攻5》)を喪失[143]。瑞鶴は46機(瑞鶴24機《艦戦8・艦爆12・艦攻4》、翔鶴22機《艦戦9・艦爆7・艦攻6》)を収容[144]。収容機中、瑞鶴所属機6と翔鶴所属機6を損傷のため海中投棄した[144]。また後述の攻撃で大破した翔鶴に艦戦1・艦爆1が強行着艦している[144][145]。瑞鶴艦攻1機が不時着して白露に救助、瑞鶴艦爆1機が神川丸に救助、古鷹が翔鶴艦戦3(直衛機)と艦爆2・瑞鶴艦爆1、勝泳丸が翔鶴艦爆1を救助した[144]。翔鶴搭乗員戦死者は36名であった[146]


しかし、第17任務部隊も撃破される前に攻撃隊計82機(75機とも)を発進させていた[147][148]。アメリカ軍攻撃隊はスコールに隠れた瑞鶴を見逃し、翔鶴に殺到した[149]。MO機動部隊の陣形は混乱しており、相互掩護できる状態ではなかった[150]。ヨークタウン攻撃隊(艦戦6、艦爆24、艦攻9)は翔鶴に対し爆弾6発、魚雷命中3本を報告[147]。レキシントンの攻撃隊(艦戦9、艦爆22、艦攻12)は爆弾3発、魚雷命中5本、翔鶴撃沈確実を報告した[147]。アメリカ軍側は多数の魚雷命中を報告しており、命中していたが不発だった可能性もある[151]
だが爆弾は大きな損害を与えた。午前9時40分以降、計3発の爆弾が命中、至近弾8発を記録[143]。最初の1発は艦首前甲板左舷に命中して両舷主錨を吹き飛ばし前部エレベーターは陥没して停止、飛行甲板前部も損傷したため、さらに前甲板右舷下方の航空用ガソリン庫に引火し大火災が発生した[152]。2発目は飛行甲板右舷後部(後部短艇甲板附近)に命中し、短艇が火災を起こした[153]。3発目は艦橋後方の機銃台・信号マスト付近に命中、艦橋勤務兵や付近の機銃要員に多数の死傷者が出た[154]。最終的に戦死者109名、重軽傷者114名に及んだ[150][155]。瑞鶴からは水平線上にマストだけ見えていた翔鶴から火柱があがり、黒煙に包まれる光景が目撃された[156]。瑞鶴の見張員が「翔鶴沈没」と錯覚するほどの様子だったという[157]。だが機関は無事(30ノット発揮可能)だったため、第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)、駆逐艦2隻(夕暮、潮)と共に戦場を離脱する[158]。不時着機の捜索に2隻(時雨、白露)を派遣したので瑞鶴の随伴艦は曙のみとなった[158]。このあと火災は鎮火したため、3隻(衣笠、古鷹、潮)は反転[158]。潮は燃料補給に向かい、夕暮のみ随伴して共に避退した[158]。夕暮は潮に『翔鶴ハ何処ヘ向ヒシヤ、翔鶴ニ着イテ行ク必要ナキヤ』と発信した[159]


退避する翔鶴の速度については、翔鶴運用長福地周夫少佐は「艦は三十ノットの速力で猛進している」と記述している[160]。翔鶴軍医官渡辺直寛中尉は「これは偏に航海長塚本朋一郎中佐による操艦の賜物と評判高い。最大戦速34.5ノットで取舵一杯、面舵一杯にして爆弾・魚雷を避けたと云う。」と記述している[161]翔鶴艦爆整備兵西村敏勝海軍一等兵曹は「たえず変針する三〇ノット以上の全力航行での振動の凄まじさは、爆弾の直撃以上」と記述している。[要出典]。瑞鶴の護衛にあたった第七駆逐隊司令部(駆逐艦潮)付通信兵大高勇治は、損傷した翔鶴が40ノット以上を発揮していたと記述している[162]


5月9日、2隻(翔鶴、夕暮)は横須賀回航を命じられた[163]。祥鳳が沈没と翔鶴が大破、多数の艦載機を喪失したことにより南洋部隊指揮官の井上成美第四艦隊司令長官はポートモレスビー作戦の中断を命じた[164]。井上司令長官の姿勢を消極的だと判断した山本五十六連合艦隊司令長官は、断固として追撃するよう命令する[164]。しかしヨークタウンは逃走しており、追撃は空振りにおわった[165]。またポートモレスビー作戦の海上攻略作戦も中止された[164]。後日、南洋部隊機動部隊は山本長官より感状を贈られた[166]



修理


5月10日、3隻(翔鶴、夕暮、漣)はトラック泊地を経て内地へ向かう[167]。航海中、フィリピン方面作戦に従事していた第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)が合流して護衛に加わる[167]。第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)はMO作戦後はミッドウェー作戦に参加予定であったが、珊瑚海海戦の被害により不参加となった[168]。5月14日に五航戦から珊瑚海海戦の戦死者の報告が送られ、その損害があまりにも大きかったので、翔鶴と瑞鶴の両艦とも到底次期作戦に使えないことが判明した[169]。5月17日、呉に到着[170][167]。同日に翔鶴は修理に三か月必要なことが判明する[171]。母港は横須賀だが、ドックは潜水母艦の大鯨(空母龍鳳)改造工事のために使えなかった[172]。そこで呉に回航されたのである[173][167]
呉到着時は日曜日であり、艦首主錨を失っていた翔鶴は小用港沖の浮標に繋がれてしばらく待機することになった[174]。真珠湾に帰投後、突貫工事で修理を終えミッドウェー海戦に参加した空母ヨークタウン(アメリカ海軍)とは正反対の対応である[175][176]。また姉妹艦が大破する様を間近で見た瑞鶴乗組員の衝撃も大きく、一部にはミッドウェー作戦参加をためらうような雰囲気もあったという[177]


呉軍港に到着した最初の大損傷艦ということで、翔鶴には各方面から見学者が殺到した[178]。さらに山本五十六連合艦隊司令長官も視察に訪れた[179]。城島高次大佐(翔鶴艦長)は損傷をわびたが、次期艦長に内定していた有馬正文大佐は、本艦が義務を果たし武勲をあげたことを賞賛している[179]
また山本長官は5月26日に福地周夫翔鶴運用長を戦艦大和に呼び、空母被弾時の戦訓について講話を行わせた[180]。福地は搭載飛行機が格納庫内になかったことが消火成功の最大要因と説明した。しかし出撃の前日であった事もあり、結果として南雲機動部隊司令部は珊瑚海海戦の戦訓を生かさなかった[181]。なお翔鶴乗組員が艦内塗料で描いた『珊瑚海々戦翔鶴奮戦図』という絵は軍令部の参謀に譲られ、さらに連合艦隊司令部(大和)に保管されることになった[182]。また福地運用長は損傷した木製飛行甲板の一部を切り取り、そこに南雲中将が『勇躍翔破珊瑚海 翔鶴艦上凱歌高 忠一誌』と揮毫している[183]


後日、井上(南洋部隊指揮官/第四艦隊長官)は1942年(昭和17年)10月26日附で海軍兵学校校長に就任した[184][185]。福地も1943年(昭和18年)1月6日附で戦艦陸奥運用長に転じたあと[186]、誤診のため2月25日附で陸奥運用長の職務を解かれる[187]。その後、同年6月15日に海軍兵学校教官に配属され、井上に仕えることになった[188]。福地は陸奥運用長時代に『翔鶴奮戦図』を大和から受け取り、さらに陸奥退艦時に持ちだしたため、福地も『翔鶴奮戦図』も陸奥爆沈(6月8日)を免れている[182]。兵学校着任後、井上校長と原忠一霞ヶ浦航空隊司令官(珊瑚海海戦時、第五航空戦隊司令官)の会談時に福地が『翔鶴奮戦図』と南雲中将揮毫を持参すると、井上は『翔鶴奮戦図』をその場で所望し、校長室正面に飾らせた[182]。井上が1944年(昭和19年)8月5日附で海軍次官に任命されて海軍兵学校を去るまで[189]、同絵は校長室に飾られていた[182]。1945年(昭和20年)5月、福地は舞鶴鎮守府副官に転任し、『翔鶴奮戦図』を教育参考館に寄贈する[182]


終戦時、教育参考館の主事だった姉崎岩蔵は『翔鶴奮戦図』を始め英霊の遺品を敵手に渡して汚されるのを忍びず、兵学校校長栗田健男中将にどうすべきか相談した。栗田はしばし瞑目し「敵手に汚されるのは余りに無念」と考え焼却を指示する。しかし姉崎はそれを残念に思い、遺品を分類したうえで図を始め一部を持ちだして厳島神社に秘匿を依頼、残りは焼却したとしている[190]


5月25日、翔鶴艦長は城島大佐から有馬正文大佐[191]に交代する(城島は少将に進級後、6月20日より第十一航空戦隊司令官[192]。マリアナ沖海戦時の第二航空戦隊司令官[193])。
6月5日-7日にかけてのミッドウェー海戦で主力空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)が沈没すると、翔鶴型2隻(翔鶴、瑞鶴)は航空艦隊の中核となった[194]。それに伴い、ミッドウェー海戦の戦訓から、搭載機の編制も艦戦27、艦爆27、艦攻18に改められる[195]。これは小型空母の艦戦で自隊の上空防御をおこない、大型空母は艦爆隊を投入して敵空母の飛行甲板を使用不能とし、その後に索敵に使用していた艦攻隊に雷撃を行わせ、とどめをさそうという戦術である[195]。艦隊の運用方針も『航空決戦を主目的とし、空母が中核に徹し、水上兵力はこれに協力する』という方針を定めた[195]。さらに前衛艦隊を空母部隊の前方に進出させ、索敵線の形成・帰投飛行隊の誘導・敵艦隊の追撃および補足・敵の攻撃力の一部吸収という役割を担わせた[195]。「囮」となる前衛部隊では「前衛艦を犠牲にして空母だけが甘い事をする」という批判も聞かれ、空母部隊からも直衛艦が減ることへの不満があったが、ともかく実施することになった[195]。ただし急に決まった戦策のため各艦隊・各艦に徹底する余裕がなく、トラック泊地集結時に説明する予定だったものの、後述の第二次ソロモン海戦のため実施できなかった[195]。艦自体にも、レーダーの設置、出火対策の徹底、煙突の冷煙装置を消防用に転用可能とする改造[196]。自動車の部品を利用した移動式消火ポンプの増設、艦の前後に三連装機銃の増設等の改装を行っている[197][198]


7月14日附で第五航空戦隊は解隊され、五航戦司令官原忠一少将は第八戦隊(利根、筑摩)司令官に転任した[199]。また同日附で空母3隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)は第一航空戦隊を再編成、同時に第三艦隊(司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将)に編入[200][199]。7月20日、南雲は第三艦隊旗艦を翔鶴に変更する[201]。本艦は再建された日本海軍機動部隊の主力空母となった[202]。航空隊にも村田重治少佐(元赤城艦攻隊長)等が着任した[197]
福地運用長や塚本朋一郎航海長は「日本海軍最上の艦の乗員」になれた幸運に感謝したという[198]。また有馬(翔鶴艦長)は福地から珊瑚海海戦の状況について説明を受け、「翔鶴が沈む時は総員退艦の号令はかけない。全員が運命を共にする覚悟で戦え」と訓示した[203]。福地は「軍艦とその乗員の運命は、艦長の性格とその信念によって決まる」と述べている[197]。南海西部で航空隊の訓練を実施したが、8月15日に着艦訓練をおこない、25日総合訓練(予定)という程度であり、練度は充分とは言い難かった[194]



第二次ソロモン海戦



8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島とフロリダ諸島に来襲し、ガダルカナル島の戦いが始まり、間を置かず第一次ソロモン海戦が勃発した。8月14日、南雲司令長官は第三艦隊・第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、龍驤)を率いて日本を出撃、洋上でも諸々の訓練を行いながらソロモン諸島へ向かう[194]。8月14日附の機動部隊軍隊区分は、本隊(第一航空戦隊《翔鶴、瑞鶴、龍驤》、第10駆逐隊《風雲、夕雲、巻雲、秋雲》、第16駆逐隊《時津風、天津風、初風》)、前衛部隊(第十一戦隊《比叡、霧島》、第七戦隊《熊野、鈴谷》、第八戦隊《利根、筑摩》、第十戦隊《長良》、第19駆逐隊《浦波、敷波、綾波》)、油槽船7隻という規模だった[204]。機動部隊決戦に向けて前衛と本隊の役割および位置関係についての戦術を説明する機会や時間がなかったため、やむを得ず航空機から筒を投下するという方法で各隊・各艦に配布している[195]


8月23-24日、ガダルカナル島増援部隊(指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官)の輸送船団を巡り、日米双方の機動部隊が対決する。ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場への日本軍基地航空隊の空襲が不徹底だったため、第三艦隊から原忠一第八戦隊司令官指揮下の機動部隊支隊4隻(空母龍驤、重巡利根〔旗艦〕、第16駆逐隊《天津風、時津風》)が分離してガ島攻撃へ向かった[205]。8月24日の第二次ソロモン海戦では、零式艦上戦闘機発艦準備中にSBDドーントレス急降下爆撃機2機に奇襲された[206]。翔鶴は急転舵して回避に成功したが、飛行甲板上の零戦と整備兵6名が転落・行方不明となった[207]。翔鶴搭載レーダーはドーントレスを探知して艦橋に報告していたが、喧噪により指揮官達に伝わらなかった[207]。B-17重爆8機との戦闘では、零戦自爆1・未帰還1を出した[207]


アメリカ軍機動部隊に対する攻撃は、決定的戦果をあげられなかった。翔鶴飛行長関衛少佐指揮のもと第一次攻撃隊の艦爆27・艦戦10(翔鶴22機《艦戦4、艦爆18》、瑞鶴15機《艦戦6、艦爆9》)が発進[208]。空母2隻大破炎上(翔鶴隊はエンタープライズ、瑞鶴隊はサラトガを攻撃)を報じたが、未帰還艦爆17・艦戦3、不時着艦爆1・艦戦3を出し、母艦へ戻ったのは13機だった[208]。翔鶴攻撃隊は空母エンタープライズを中破(爆弾3命中、至近弾2)させたが、エンタープライズはすぐに損傷を修理して1時間以内に航空隊の収容をおこなっている[208]。また、サラトガは空襲を受けていないという[208]
第二次攻撃隊は瑞鶴飛行隊長高橋定大尉指揮のもと艦爆27・零戦9(翔鶴12機《艦戦3、艦爆9》、瑞鶴24機《艦戦6、艦爆18》)が発進したが、アメリカ軍機動部隊を発見できず引き返した(艦爆4が未帰還、同1が不時着)[209]。アメリカ軍の記録によれば、アメリカ軍機動部隊の西方50浬に日本軍機を探知したが、南方へ退避したため攻撃を受けなかったとしている[209]。また分派した支隊もサラトガ隊の攻撃を受け、軽空母龍驤が沈没するという損害を受けた[205]。24日の戦闘で、沈没艦(龍驤)損害分をあわせ合計59機(零戦30、艦爆23、艦攻6)と水偵3を喪失、ほかに水上機母艦千歳も中破、残存使用可能機数は25日現在で空母2隻合計零戦41・艦爆25・艦攻34となった[210]。翔鶴搭乗員戦死者29名[206]。アメリカ軍側は艦載機20を喪失し、日本軍機90機を撃墜したと報告している[210]


8月25日、ガダルカナル島へ向かっていた日本軍輸送船団(金龍丸、ぼすとん丸、大福丸)と護衛部隊(神通、涼風、海風、江風、睦月、弥生、磯風、陽炎、哨戒艇《旧式駆逐艦》4隻)はドーントレスやB-17重爆の空襲を受け、2隻(駆逐艦《睦月》、輸送船《金龍丸》)を喪失、軽巡神通(第二水雷戦隊旗艦)が中破した[211]。増援部隊指揮官田中頼三少将(二水戦司令官)は、上空直掩機のない現状でガ島へ突入しても全滅すると判断し、健在艦をショートランド泊地へ避退させた[211]。瑞鶴艦載機が上空警戒にあたるが、低速の輸送船団がアメリカ軍制空権下で突入することは難しく、作戦中止に至る[211]。ここに第二次ソロモン海戦はアメリカ軍の勝利に終わった[212]


第二次ソロモン海戦後、ガダルカナル島攻撃作戦を掩護するため翔鶴所属零戦15機(指揮官新郷英城大尉)がブカ島へ派遣された[213]。9月4日、5機(戦死5名)を失って10機に減少した零戦隊が母艦に帰艦した[214][213]。翌日、南雲機動部隊はトラックに到着した。9月10日、補給を終えた翔鶴以下日本軍機動部隊は出撃してソロモン海域の警戒にあたる[215]。アメリカ軍は空母ワスプ(USS Wasp, CV-7)が潜水艦の伊十九の雷撃で撃沈されるなど積極的な行動を起こせず、大きな戦闘が起きないまま南雲機動部隊は9月23日にトラック島に戻った[216]



南太平洋海戦




南太平洋海戦時の翔鶴




甲板上の艦載機(1942年10月26日)




損害状況



ガダルカナル島の日本軍は劣勢に陥り、日本軍は10月25日を予定して陸海軍の総攻撃実施を決定する。10月11日、翔鶴以下南雲機動部隊はトラック島を出撃し、ソロモン海域に進出した[217]。10月26日の戦闘における第三艦隊本隊の戦力は、第一航空戦隊の空母3隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)、第七戦隊の重巡洋艦1隻(熊野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、舞風》、第61駆逐隊《照月》、第17駆逐隊《浜風》、第16駆逐隊《雪風、初風、時津風、天津風》)であった[218]
同日朝、索敵中のドーントレス2機が空母瑞鳳を奇襲、爆弾1発を艦後部に命中させて着艦不能とさせた[219]
午前6時50分、翔鶴の索敵機がアメリカ軍機動部隊を発見、翔鶴飛行隊長村田重治少佐率いる九七式艦上攻撃機20、高橋定大尉率いる九九式艦上爆撃機21、零戦8機の第一次攻撃隊が発進する[220]。続いて第二次攻撃隊の発進が開始されたが、瑞鶴艦攻発進が遅れたため、翔鶴艦爆隊(関衛少佐、艦爆19・零戦5)は瑞鶴隊を待たずにアメリカ軍機動部隊へ向かった[221]。旗艦(翔鶴)が南下する一方、瑞鶴は航空隊発進のため風上へ向かい、20kmも離れる[222]。孤立した翔鶴は珊瑚海海戦に続いてアメリカ軍機の集中攻撃を受けることになった[223]。爆弾4発(飛行甲板後部左舷3発、右舷後部に1発)が命中、高角砲弾の一部誘爆はあったが致命傷にはならず、機関は健在だった[224]。特に煙突冷却用ポンプは効果を発揮し、事前に被弾火災想定訓練をおこなっていた事が被害を最小限にしたといえる[225]。また艦橋防空指揮所の有馬(翔鶴艦長)が右舷前方から接近するドーントレスの一群に対し「取舵」を下令したところ、塚本(翔鶴航海長)は珊瑚海海戦の経験から独断で面舵へ転舵(アメリカ軍艦爆隊と反航態勢)[226]。爆弾4発命中にとどめた。塚本航海長は「艦長の命令だからといって、ミスミス悪いことと知りながら盲従していたら、おそらく全弾命中して『翔鶴』の運命は終わりであったろうと思う」と、南雲長官や草鹿参謀長の面前でも命令違反を犯したと回想している[226]。有馬も取舵転舵を下令した事は失敗だったと認め、塚本を叱責する事態にはならなかったという[226]


南雲機動部隊が攻撃を受けていたころ、日本軍攻撃隊もアメリカ軍機動部隊を空襲し 第二航空戦隊(空母隼鷹)や第二艦隊と共同で空母ホーネット (USS Hornet, CV-8) を撃沈、エンタープライズを大破するという戦果をあげている。その一方、村田少佐を含む艦攻10機、関少佐を含む艦爆22機、零戦12機、搭乗員計54名を失った[227][228]。随伴駆逐艦も不時着機搭乗員救助にあたった[229][230]。午後5時、南雲司令部は駆逐艦嵐(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)に移乗して翔鶴から離れた[231]。なお、有馬(翔鶴艦長)は大破した翔鶴で逃走するアメリカ軍機動部隊を追撃することを主張した[232]。自艦を被害担当艦(囮)にして、他艦の攻撃を支援をしようという有馬の特攻精神だったという[232]。だが草鹿龍之介機動部隊参謀長に「飛行甲板の大破した空母で戦えるのか」と退けられている[233]


艦上戦死者144名、航空隊戦死者54名を出して大破した翔鶴は駆逐艦2隻(舞風、初風)に護衛されて避退、10月28日トラックに帰港し再び山本司令長官と宇垣纏連合艦隊参謀長の慰問を受けた[234][235]
10月29日、昭和天皇は南太平洋海戦における連合艦隊の戦果を称える勅語を贈る[236]


この後、南太平洋海戦で損傷した空母2隻(翔鶴、瑞鳳)、重巡2隻(熊野、筑摩)は駆逐艦8隻(第4駆逐隊《嵐、野分》、第61駆逐隊《秋月》、第10駆逐隊《秋雲》、第17駆逐隊《浦風、谷風、磯風、浜風》)に護衛されて内地へ帰投、11月6-7日にそれぞれの母港へ到着した[237]
横須賀に到着後は同地で修理を行うが、この間、東条英機首相が視察に訪れている[238]。日本海軍は、真珠湾攻撃・珊瑚海海戦・南太平洋海戦における2隻(翔鶴、瑞鶴)の奮戦に対し3回の感状を授与した[234]。また二度の大海戦における2隻(翔鶴、瑞鶴)の被害の差から、瑞鶴は幸運艦と呼ばれた[239]。瑞鶴乗組員達は翔鶴について、「実に運の悪い艦だ」と噂していたという[240]。一方、福地周夫(翔鶴運用長)は「海軍軍人の立場からいうと、(瑞鶴は)逃げ隠れていて戦うことができずに、かえって不運だったと思っている。翔鶴の方が武運に恵まれて幸運だった」・「敵が攻めて来ているのに隠れていて、しかも、僚艦が攻撃されているのに知らん顔をして戦わなかった『瑞鶴』を、単に運がよかったとばかりは思わない」と著している[241]。珊瑚海海戦の時も、「瑞鶴は隠れていて無事で、まことに幸運でした」と報告したら山本長官は喜んだだろうか、と指摘している[179]



1943年


南太平洋海戦後の11月11日、第三艦隊司令長官は南雲中将から小沢治三郎中将に交代する[242]。11月23日附で第三艦隊参謀長も草鹿龍之介少将から山田定義少将に交代する[60]
内地での練成により、消耗した翔鶴航空隊も定数を満たした。
1943年(昭和18年)2月16日、有馬(翔鶴艦長)は海軍航空本部教育部長へ転任[243]。後任の翔鶴艦長は、2月12日まで空母隼鷹艦長を務めていた岡田為次大佐となった[244][243]
3月20日、翔鶴は空母龍鳳(12月中旬、被雷。修理完了)および駆逐艦4隻(浜風、漣、響、波風)と共に内海西部へ回航される[245]。3月25日、前年の珊瑚海海戦における南洋部隊機動部隊の戦果に感状が贈られた[166]


6月30日、アメリカ軍はニュージョージア諸島に来襲してニュージョージア島の戦いが始まった。
7月8日、第三艦隊長官小沢治三郎中将指揮下の空母4隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、冲鷹)、水上機母艦日進、重巡洋艦3隻(利根、筑摩、最上)、軽巡洋艦2隻(大淀、阿賀野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、萩風》、第17駆逐隊《磯風》、第61駆逐隊《涼月、初月》、夕雲型駆逐艦《玉波》)は呉を出発した[246][247]。だが、い号作戦やろ号作戦(ブーゲンビル島沖航空戦)をはじめとした1943年の航空戦により、再建した母艦航空隊は陸上基地航空隊に転用されて消耗[248]。第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)がアメリカ艦隊と直接交戦することはなかった[249]


11月11日、大型艦3隻(翔鶴、愛宕、高雄)は駆逐艦2隻(島風、玉波)[250]に護衛されてトラックを出発、15日に横須賀へ到着して修理整備を実施した[251]
11月17日、阿賀野型軽巡洋艦1番艦阿賀野艦長松原博大佐(阿賀野はラバウル空襲と潜水艦の雷撃で大破中)が、翔鶴艦長に任命された[252]
11月26日、3隻(翔鶴、島風、玉波)はトラックへ向け出撃[253][254]。空母千歳と駆逐艦2隻(秋月、谷風)と合流後、6隻(空母《翔鶴、千歳》、駆逐艦4隻《玉波、島風、秋月、谷風》)は12月1日にトラック泊地へ到着した[255][256]
12月6日、第三艦隊旗艦は、臨時に軽巡洋艦大淀に変更された[257]
12月7日、機動部隊参謀長は山田少将から古村啓蔵大佐(大和型2番艦武蔵艦長)に交代した[258]
12月10日、翔鶴以下トラック泊地在泊の大型艦に対し本土回航命令が出される[259]。瑞鶴は既に本土へ戻っていた[260][261]。6隻(空母《翔鶴》、戦艦《大和》、駆逐艦《山雲、秋雲、風雲、谷風》)は12月12日にトラックを出発、17日に横須賀へ帰着した[262]



マリアナ沖海戦


1944年(昭和19年)1月17日、3隻(翔鶴、第10駆逐隊《秋雲、風雲》)は横須賀を出発して内海西部へ移動[263]。2月6日、空母2隻(翔鶴、瑞鶴)は巡洋艦2隻(筑摩、矢矧)と駆逐艦5隻(第61駆逐隊《初月、若月》、第10駆逐隊《秋雲、風雲、朝雲》)と共に内地を出発[264]。シンガポール(昭南)着後、リンガ泊地へ進出した[265]。その後、第十戦隊所属の艦艇と共に訓練に従事した[266]


日本の敗色が濃くなった1944年(昭和19年)3月1日、日本海軍は第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将、参謀長古村啓蔵少将)を編成し[267]、小沢中将は翔鶴を旗艦とした[268]これにともない瑞鳳は第三航空戦隊に編入(千歳、千代田、瑞鳳)、第一航空戦隊は空母2隻(翔鶴、瑞鶴)となる[269]
3月10日、飛行甲板に装甲を施した新鋭空母の大鳳が第一航空戦隊に編入された[270]。3月28日、大鳳は駆逐艦2隻(初月、若月)に護衛されて内地を出撃[271]、4月15日、小沢中将は大鳳に移動し将旗を掲げた[272]。なお、4月11日にかつて第五航空戦隊に所属した駆逐艦秋雲がアメリカの潜水艦レッドフィン (USS Redfin, SS-272)の雷撃で撃沈されている。アメリカ軍潜水艦の行動により日本艦隊の駆逐艦は次々に撃沈され、またビアク島の戦いを巡る渾作戦でも消耗を重ねた。



6月、アメリカ軍のサイパン島襲来に伴い日米両軍の間でマリアナ沖海戦が生起する。翔鶴の航空戦力は零式艦上戦闘機34、天山艦上攻撃機12(3機は偵察機)、彗星艦上爆撃機18、二式艦上偵察機10、九九式艦上爆撃機3、計77機だったという[273]。小沢機動部隊(直率隊)が抱える問題の一つに、大型空母3隻(大鳳、翔鶴、瑞鶴)と巡洋艦3隻(第五戦隊《羽黒、妙高》、第十戦隊《矢矧》)に対し、護衛駆逐艦の数が少なすぎることだった[274]。わずか7隻(第10駆逐隊《朝雲》、第17駆逐隊《磯風、浦風》、第61駆逐隊《初月、秋月、若月》、秋月型《霜月》)である。
ところが6月19日11時20分、航空機の発進中にアメリカのガトー級潜水艦のカヴァラ(USS Cavalla, SS-244)が発射した魚雷6本のうち、3乃至4本が翔鶴の右舷に命中した[275][276][277](左舷後部に命中との証言あり)[278]。カヴァラは給油部隊を発見して追跡を開始、17日夕刻に小沢機動部隊を発見して位置情報を報告[279]。アルバコアなどの僚艦を呼び寄せると同時に、攻撃の機会をうかがっていたのである[280]。カヴァラ側によれば日本側は全く気付いておらず、潜望鏡露出4回、距離1000mまで接近して発射したという[274][279]


翔鶴は複数の魚雷命中によって3軸運転となり、電力が失われ速力も低下した[279]。石塚(矢矧水雷長)によれば、翔鶴は被雷後も速度を落とさず航行しており、そのうち隔壁の破れる音と共に煙突から蒸気が噴出、矢矧座乗中の第十戦隊司令官木村進少将が「翔鶴は止まらなくては駄目だ」と叫ぶ一幕もあったという[281]。翔鶴艦内では左舷への注水作業により傾斜の復旧作業が実施されたが、注水のしすぎによって逆に左舷に傾斜してしまった[279]。また前部に命中した魚雷によって艦首が著しく沈下した。また、エレベーターも故障して途中で止まっていた[282]。その後、魚雷被弾時に気化した航空燃料が艦内に充満[275]、それに引火して大爆発と大火災が発生[283]。14時1分乃至[284]14時10分に沈没した[285]。沈没時、乗組員は飛行甲板後部に集まっていたが、急激に前のめりになって沈下をはじめたため滑り台のようになり、飛行甲板に空いたエレベーターの穴に多数の乗組員が落ちてしまった[282]。1,272名の乗組員が戦死[286][287]、翔鶴艦長の松原大佐を含む脱出者は護衛艦(矢矧[288]、浦風[289]、秋月[290][291])等に救助されている。翔鶴の艦歴は2年10ヶ月であった[292]


翔鶴の沈没から間もなく、小沢機動部隊の旗艦大鳳もアメリカの潜水艦アルバコア(USS Albacore, SS-218)から受けた雷撃が原因で大爆発を起こして沈没した[276][280]。脱出者は磯風等に救助された[293]。また6月20日の空襲で小沢機動部隊は空母飛鷹とタンカー2隻を喪失、他艦(瑞鶴、隼鷹、千歳、千代田、榛名、摩耶)等も損傷した[294]。空母3隻(翔鶴、大鳳、飛鷹)の喪失により、日本の空母戦力は機動部隊として艦隊運用できる隻数・搭載機・乗員の確保が困難となり、事実上、空母機動部隊として作戦運用できる能力を失った[294]。翔鶴生存者は救助艦から姉妹艦瑞鶴と重巡摩耶等に移乗し、日本本土へ向かった[295]


1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武藏、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された[296]



年表



  • 1937年(昭和12年)12月12日 横須賀海軍工廠にて起工。


  • 1939年(昭和14年)

    • 5月16日 命名[22]


    • 6月1日 進水



  • 1941年(昭和16年)

    • 8月8日 就役。


    • 8月23日処女航海。


    • 8月25日 第五航空戦隊に編入。


    • 11月26日 単冠湾出撃。


    • 12月8日 真珠湾攻撃参加。



  • 1942年(昭和17年)

    • 1月17日 ラバウル攻略戦でトラック諸島出撃、同20日ラバウル、同21日ラエ攻撃。


    • 3月26日 セイロン沖海戦参加。翌4月5日コロンボ攻撃。同9日トリンコマリー攻撃。


    • 5月7日 珊瑚海海戦参加。5月9日世界最初の空母対空母の戦闘を行う。


    • 6月17日 呉にて修理を行う。


    • 8月24日 第二次ソロモン海戦参加。


    • 10月26日 南太平洋海戦に参加。



  • 1944年(昭和19年)6月19日 マリアナ沖海戦でアメリカの潜水艦カヴァラの雷撃で戦没。


  • 1945年(昭和20年)8月31日 除籍[296]


艦長


艤装員長
  • 澄川道男 大佐:1940年5月20日[57] - 1940年10月15日[59]


  • 城島高次 大佐:1940年10月15日[62] - 1941年4月17日[64]

艦長
  • 城島高次 大佐:1941年4月17日[64] - 1942年5月25日[191]


  • 有馬正文 大佐:1942年5月25日[191] - 1943年2月16日[243]


  • 岡田為次 大佐:1943年2月16日[243] - 1943年11月17日[252]

  • 松原博 大佐:1943年11月17日[252] - 1944年6月26日[297]


同型艦


  • 瑞鶴


脚注


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  1. ^ abcd#内令昭和17年5月(1)画像48、艦船要目公表範囲


  2. ^ #海軍制度沿革巻八p.102。昭和14年5月16日(内令386) 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦、航空母艦ノ項中飛龍ノ下ニ「、翔鶴」ヲ加フ。


  3. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.501、物価高騰の追加分を含む。当初は80,850,000円(同書p.497)。


  4. ^ #艦艇特務艦艇籍一覧表p.1


  5. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.506。


  6. ^ #昭和20年8月 昭和20年11月 海軍公報(終戦関係)画像1。昭和20年8月31日付 内令第750号。


  7. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」

  8. ^ abcdefghijklm「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.2

  9. ^ ab「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.49

  10. ^ abc#昭和造船史1pp.780-781

  11. ^ ab「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.44

  12. ^ abc「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.33

  13. ^ abc#日本空母物語p.418、「表B あ号作戦直前における空母の最大速力、航続距離、満載重油搭載量(昭和19年5月調査)」、翔鶴の項。


  14. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.40

  15. ^ ab「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.12

  16. ^ ab「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.29

  17. ^ ab「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.6

  18. ^ ab#日本空母物語p.418、「表A あ号作戦直前における空母対空兵装(昭和19年5月現在)」、翔鶴の項。


  19. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.37


  20. ^ 『戦史叢書10 ハワイ作戦』p.344


  21. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.25

  22. ^ abc#達昭和14年5月p.11『達第七十號 横須賀海軍工廠ニ於テ建造中ノ航空母艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十四年五月十六日 海軍大臣 米内光政 航空母艦 翔鶴(シヤウカク)』


  23. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.204『◎航空母艦翔鶴命名ノ件 昭和十四年五月十六日(達七〇) 横須賀海軍工廠ニ於テ建造中ノ請うッ空母刊一隻ニ左ノ通命名セラル 航空母艦 翔鶴(シヨウカク)』


  24. ^ #内令昭和18年9月(6)p.24『内令第千九百八十五號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十八年九月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦ノ項ヲ左ノ如ク改正ス 鳳翔、赤城、加賀、龍驤、蒼龍、飛龍|翔鶴型|翔鶴、瑞鶴|瑞鳳型|瑞鳳、龍鳳|隼鷹型|隼鷹、飛鷹|大鷹型|大鷹、雲鷹、冲鷹|大鳳型|大鳳|雲龍型|雲龍、天城』


  25. ^ #造艦テクノロジーの戦い122-126頁『偉大なる主力空母』


  26. ^ #続海軍くろしお178頁


  27. ^ #空母瑞鶴生涯372頁


  28. ^ #翔鶴海戦記141頁


  29. ^ #海軍歴史巻之23船譜(1)p.3『政府洋製諸船|翔鶴丸』


  30. ^ #達大正10年2月p.11『達第二十六號 軍備補充費ヲ以テ大正九年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ水雷母艦一隻大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ航空母艦一隻竝二等砲艦四隻ニ左ノ通命名ス|大正十年二月十七日 海軍大臣 男爵 加藤共三郎|大将九年度ニ於テ着手スヘキモノ 水雷母艦一隻 迅鯨ジンゲイ|大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキモノ 航空母艦一隻 翔鶴シャウカク|二等砲艦四隻 勢多セタ 堅田カタタ 比良ヒラ 保津ホヅ』

  31. ^ ab#達大正10年3月p.1『達第三十號 艦艇類別等級表中水雷母艦駒橋ノ下ニ「、迅鯨」ヲ、航空母艦若宮ノ下ニ、翔鶴ヲ、砲艦二等ノ欄嵯峨ノ下ニ、勢多、堅田、比良、保津ヲ加フ|大正十年三月三日 海軍大臣 男爵 加藤友三郎』


  32. ^ #達大正9年4月p.1『達第三十七號 艦艇類別標準中左ノ通改定セラル|大正九年四月一日 海軍大臣 加藤友三郎|別表中巡洋艦ノ欄ノ次ニ左ノ三欄ヲ加フ |航空母艦|水雷母艦|敷設艦|』


  33. ^ #達大正9年4月p.1『達第三十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|大正九年四月一日 海軍大臣 加藤友三郎|巡洋艦一等ノ欄内阿蘇、同二等ノ欄内「津軽、」ヲ削ル 海防艦二等ノ欄内、韓崎、駒橋、若宮」ヲ削ル 巡洋艦ノ欄ノ次ニ左ノ如ク加フ||航空母艦| |若宮|水雷母艦| |韓崎、駒橋|敷設艦| |阿蘇、津軽、勝力』


  34. ^ #達大正10年10月p.15『達第百九十三號 特務艦鳳翔ヲ帝國軍艦ト定メラル 大正十年十月十三日 海軍大臣 男爵 加藤共三郎』


  35. ^ #達大正10年10月p.15『達第百九十四號 今回特務艦ヨリ帝國軍艦ト定メラレタル軍艦ヲ鳳翔ト命名ス 大正十年十月十三日 海軍大臣 男爵 加藤共三郎』

  36. ^ ab#達大正10年10月p.15『達第百九十五號 艦艇類別等級表中航空母艦ノ欄翔鶴ノ次ニ、鳳翔ヲ加フ 大正十年十月十三日 海軍大臣 男爵 加藤共三郎』


  37. ^ #艦船要目公表範囲(昭和17年12月31日)p.2『鳳翔|航空母艦|(艦要目略)|浅野造船所|大正8-12-16|大正10-11-13|大正11-12-27|(艦装備略)』


  38. ^ #新艦起工予定及同造船所名の件p.2『航空母艦 翔鶴 大正十一年 浅野造船所』


  39. ^ #加賀空母改造件pp.4-5『大正十二年八月二十一日 大臣 侍従長宛 曩ニ軍艦天城赤城ハ巡洋戰艦トシテ命名御治定相成天城ハ横須賀海軍工廠ニ於テ赤城ハ呉海軍工廠ニ於テ建造中ニ有之候其ノ後華府會議軍備制限條約ニ依リ巡洋戰艦ハ今後十個年間建造セラレザルコトト相成候ノミナラズ建造中ノモノモ廢棄致ス可キト決定相成候ニ就テハ天城赤城ハ之ヲ帝國海軍ニ於テケ緊急整備ヲ要スル航空母艦(排水量二六,九〇〇噸)ニ艦種ヲ変改ノ上両海軍工廠ニ於テ各其ノ工事ヲ継續致シ又右ノ結果條約ニ依ル航空母艦ノ帝國割当排水量ノ関係上大正十年度ニ於テ建造着手ノ豫定ニテ命名御治定相成候航空母艦翔鶴ノ建造ハ之ヲ取止コトニ致候條此ノ旨可然御執奏相成度此段申進候(終)』


  40. ^ #大正12年雑款p.2『大正十二年十一月十二日海軍省公表 華府會議ノ結果航空母艦ニ改造ノコトニ豫定サレ居リシ軍艦天城ハ過般ノ震災ニ依リ横須賀海軍工廠船台上ニテ船体ニ故障ヲ生シタル為改造不適当トナリシヲ以テ今般其ノ代艦トシテ軍艦加賀ヲ航空母艦ニ改造スルコトニ決定シ此旨華府會議海軍條約関係各國ニ通牒セリ(了)』


  41. ^ #達大正12年11月p.16『達第二百二十四號 軍備補充費ヲ以テ建造中ノ戰艦加賀及巡洋戰艦赤城ノ艦種ヲ航空母艦ニ改メラル 大正十二年十一月十九日 海軍大臣 財部彪』


  42. ^ #達大正12年11月p.16『達第二百二十六號 軍備補充費ヲ以テ大正十年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ航空母艦翔鶴ノ建造ヲ取止メラル 大正十二年十一月十九日 海軍大臣 財部彪』


  43. ^ #達大正12年11月p.16『達第二百二十五號 艦艇類別等級表中航空母艦ノ欄鳳翔ノ下ニ加賀赤城ヲ加ヘ戰艦ノ欄加賀及巡洋戰艦ノ欄赤城ヲ削除ス|大正十二年十一月十九日 海軍大臣 財部彪』


  44. ^ #達大正12年11月p.16『達第二百二十七號 艦艇類別等級表中航空母艦ノ欄翔鶴ヲ削除ス 大正十二年十一月十九日 海軍大臣 財部彪』

  45. ^ abc#空母二十九隻53-54頁『バルバルバウと中心線上の二枚舵』

  46. ^ ab#空母二十九隻56-58頁『飛行甲板二四二メートル速力三四ノット』

  47. ^ abcd#空母二十九隻50-52頁『艦橋はかくて右舷煙突前方に置かれた』


  48. ^ #S1612五航戦(参考)p.3『(一)瑞鶴翔鶴ノ動揺ハ赤城加賀蒼龍飛龍ニ比シ拙メテ大ナリ(波濤ノ状況ニ依リ動揺角度ニ差異アルモ概ネ赤城ノ三倍蒼龍型ノ1.5乃至2倍ナル場合多シ)…』


  49. ^ #S1612五航戦(参考)p.3『(三)瑞鶴翔鶴型ノ航續力ハ適當ニシテ予想サルル機動作戦ニ適慮スルモノト認ム』

  50. ^ ab#艦船要目公表範囲(昭和17年12月31日)p.2『翔鶴|航空母艦|長(米)230.00|幅(米)26.00|喫水(米)6.20|排水量(噸)(基準)20.000|速力(節)30|(短艇數)12|横須賀工廠|昭和12-12-12|14-6-1|16-8-8|(艦装備略)』


  51. ^ #続海軍くろしお44頁

  52. ^ ab#続海軍くろしお46頁


  53. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.71『昭和十四年五月十六日(内令三八六)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦、航空母艦ノ項中飛龍ノ下ニ「、翔鶴」ヲ加フ』


  54. ^ #海軍美談46頁


  55. ^ #海軍美談48頁

  56. ^ ab#艦船要目公表範囲(昭和17年6月30日)p.8『高崎|潜水母艦|(性能略)|横須賀工廠|起工年月日10-6-20|進水年月日11-6-9|竣工年月日15-12-27|(兵装略)』

  57. ^ ab『昭和15年5月21日(発令5月20日付)海軍辞令公報(部内限)第481号 p.38』 アジア歴史資料センター Ref.C13072078100 


  58. ^ 『昭和15年5月23日(木)海軍公報(部内限)第3509号 p.7』 アジア歴史資料センター Ref.C12070388000 『○事務所設置 翔鶴艤装員事務所ヲ横須賀海軍工廠内ニ設置シ五月二十三日ヨリ事務ヲ開始セリ』

  59. ^ ab『昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.31』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 

  60. ^ ab『昭和17年11月24日(発令11月21日付)海軍辞令公報(部内限)第994号 pp.9-10』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088300 


  61. ^ 『昭和18年8月16日(発令8月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1191号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C13072092500 

  62. ^ ab『昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.29』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 


  63. ^ 『昭和15年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第555号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500 

  64. ^ abc『昭和16年4月17日(発令4月17日付)海軍辞令公報(部内限)第622号 p.27』 アジア歴史資料センター Ref.C13072080800 


  65. ^ 『昭和16年7月12日(土)海軍公報(部内限)第3843号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C12070396200 『○事務所撤去 翔鶴艤装員事務所ヲ七月五日撤去セリ』


  66. ^ #艦艇特務艦艇籍一覧表p.1


  67. ^ #翔鶴海戦記34頁


  68. ^ 『昭和16年8月8日(発令8月8日付)海軍辞令公報(部内限)第686号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C13072081700 


  69. ^ #翔鶴海戦記37頁


  70. ^ 『昭和16年8月27日(水)海軍公報(部内限)第3882号 p.35』 アジア歴史資料センター Ref.C12070396800 『○旗艦變更 第一航空艦隊司令長官ハ八月二十六日旗艦ヲ翔鶴ニ變更セリ』


  71. ^ 『昭和16年8月27日(水)海軍公報(部内限)第3882号 pp.38-39』 アジア歴史資料センター Ref.C12070396800 『○艦船所在○八月二十七日午前十時【航海中】瑞鳳、三日月(二十四日佐世保發-作業地へ)/朝風、旗風(二十四日作業地發-横須賀へ)/赤城(二十五日作業地發-横須賀へ)/呉竹、早苗、若竹(二十五日作業地發-呉へ)』


  72. ^ #内令昭和16年9月(1)p.3『内令第九百九十七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十六年九月一日|海軍大臣 及川古志郎|第七驅逐隊ノ項中朧、及、漣ヲ削ル』


  73. ^ #支那事変第10回功績(7駆)p.1『自9月1日至9月24日漣単独駆逐艦トナル/9月1日ヨリ朧単独駆逐艦トナル』


  74. ^ #支那事変第10回功績(朧)p.1『自9月1日至11月20日|聯合艦隊第五航空戦隊ニ属シ艦隊諸訓練ニ従事シツヽ対事変待機』


  75. ^ 『昭和16年9月1日(発令9月1日付)海軍辞令公報(部内限)第701号 p.2』 アジア歴史資料センター Ref.C13072081900 


  76. ^ 『昭和16年9月3日(水)海軍公報(部内限)第3888号 p.18』 アジア歴史資料センター Ref.C12070397300 『○旗艦指定 第五航空戦隊司令官ハ九月一日旗艦ヲ春日丸ニ指定セリ』


  77. ^ 『昭和16年9月11日(木)海軍公報(部内限)第3895号 p.19』 アジア歴史資料センター Ref.C12070397400 『○旗艦變更 第一航空艦隊司令長官ハ九月八日旗艦ヲ赤城ニ變更セリ』


  78. ^ 『昭和16年9月13日(土)海軍公報(部内限)第3897号 p.41』 アジア歴史資料センター Ref.C12070397400 『○旗艦變更 第五航空戦隊司令官ハ九月十日旗艦ヲ翔鶴ニ變更セリ/支那方面艦隊司令長官ハ九月十一日旗艦ヲ飛鳥ニ變更セリ』


  79. ^ #昭和17年度帝国海軍戦時編制・駆逐隊他p.1『呉|第十一驅逐隊|吹雪、白雪、初雪|(戦時編制ニ依ル所属)第一航空戦隊』


  80. ^ #昭和17年度帝国海軍戦時編制・駆逐隊他p.1『呉|第五十一驅逐隊|薄雲、白雲|(戦時編制ニ依ル所属)第五航空戦隊』


  81. ^ #昭和17年度帝国海軍戦時編制p.5『艦隊|第一航空艦隊|第一航空戦隊/翔鶴、瑞鶴、第十一驅逐隊|第二航空戦隊/蒼龍・飛龍・第十二驅逐隊|第四航空戦隊/龍驤、《飛鷹》、《隼鷹》、第三驅逐隊|第五航空戦隊/赤城、加賀、第五十一驅逐隊|第六航空戦隊/《第三十一驅逐隊》/特設航空母艦三』


  82. ^ #川崎戦歴20,43頁


  83. ^ 『昭和16年8月25日(発令8月25日付)海軍辞令公報(部内限)第699号 p.25』 アジア歴史資料センター Ref.C13072081800 


  84. ^ #艦船要目公表範囲(昭和17年12月31日)p.2『瑞鶴|航空母艦|(艦要目略)|神戸川崎造船所|昭和13-5-25|14-11-27|16-9-25|(艦装備略)』


  85. ^ #内令昭和16年9月(4)p.21『内令第千百十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十六年九月二十五日 海軍大臣及川古志郎|第七驅逐隊ノ項中潮ノ下ニ、漣ヲ加フ』


  86. ^ #内令昭和16年9月(5)p.9『内令第千百四十二號 驅逐艦 秋雲 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|昭和十六年九月二十七日 海軍大臣 及川古志郎』


  87. ^ #支那事変第10回功績(秋雲)p.1『記事|昭和一六.九.二七 第一航空艦隊第五航空戦隊ニ編入』


  88. ^ 『昭和16年11月21日(金)海軍公報(部内限)第3951号 p.37』 アジア歴史資料センター Ref.C12070398400 『○旗艦變更 第五航空戦隊司令官ハ十一月十四日旗艦ヲ瑞鶴ニ變更セリ』


  89. ^ 面白いほどよくわかる太平洋戦争 日本文芸社 p.37


  90. ^ #翔鶴海戦記42頁


  91. ^ #翔鶴海戦記43頁


  92. ^ #S1612五航戦(参考)pp.5-6『(ハ)戦死者 十二月八日布哇空襲ノ際翔鶴艦爆1機被弾ノ爲歸還セズ』


  93. ^ #翔鶴海戦記53頁(一等飛行兵 岩槻国夫/熊倉哲三郎)


  94. ^ #S1612五航戦(経過)pp.2-3『(四)15日機動部隊信令第30號ニ依リ「ミッドウェイ」空襲取止メ第四艦隊ニ協力「ウェイキ」島ヲ空襲スルコトニ定メラレタル所16日機動部隊信令第34號ニ依リ「ウエイキ」島空襲ハ第八戦隊第二航空戦隊谷風浦風之ニ當ルコトヽトナリ其ノ他ハ瀬戸内海西部ニ直航スルコトニ変更セラレタリ』


  95. ^ #S1612五航戦(経過)pp.3-4『(六)同夜機動部隊ハ南方ニ偽航路ヲ執リ爾後概ネ16節乃至20節ヲ以テ硫黄島ノ南方海面ヲ経テ21日朝父島ノ南西方約350浬ニ於テ第21、第27駆逐隊及第2補給隊ト合同豊後水道方面ニ向ヒツヽ警戒隊ハ第二補給隊ヨリ補給ヲ行ヒ同夜第二補給隊ヲ分離、23日0930豊後水道掃海水道外ニ達シ呉鎮守府防備部隊ノ警戒裡ニ内海ニ入リ1833廣島湾ニ假泊24日1345假泊地発1600呉ニ入港セリ』


  96. ^ #翔鶴海戦記52頁


  97. ^ #S1701五航戦(経過)p.5『(2)飛行機整備補充 第一段第一期作戦中ノ損耗及使用時間超過機更新及12月31日附搭載機数ノ改正(fc×18 fb×27 fo×27ヲfc×18 fb×18 fo×18ニ改正セラル)等ニ依ル 飛行機ノ整備補充状況左ノ如シ(略)』

  98. ^ abc#叢書49南東方面69-72頁『機動部隊の作戦』


  99. ^ #S1701五航戦(経過)p.3『(2)特別空襲隊軍隊區分』


  100. ^ #翔鶴海戦記53頁

  101. ^ abcd#叢書49南東方面82-83頁『基地航空部隊の進出』


  102. ^ #S1701五航戦(経過)pp.13-14『(4)26日予定ノ空輸ヲ取止メ27日朝實施スルコトヽシ一旦北上2230南下27日0700 2度南152度東ニ達シ発艦セントセルモ0600天候偵察ニ派遣セル瑞鶴艦攻ヨリ「ラボール」方面天候不良ナルモ「カビエン」ハ良好ナルノ報告ニ接スルヲ以テ「ラボール」ヘノ空輸ヲ取止メ「カビエン」ヘ空輸スルコトニ変更1000瑞鶴艦攻3(誘導機)及九六艦戦16機発艦1130全機「カビエン」ヘ空輸ヲ完了セリ(着艦ノ際1機顛覆機体大破人員無事)』


  103. ^ #S1701五航戦(経過)p.15『(四)29日0808ヨリ31日2400迄 瑞鶴ハ「トラック」ニ於テ次期作戦ニ備ヘ整備補給単独訓練ニ従事ス翔鶴ハ(陽炎浜風ヲ警戒艦トス)第一航空艦隊信令第18號ニ依リ第一・第五航空戦隊ノ還納機(艦戦14艦爆4艦攻1)ヲ搭載各艦搭乗員ヲ便乗セシメ1400出港横須賀ニ回航セリ同艦ハ横須賀ニ回航セリ…』


  104. ^ #翔鶴海戦記56頁(三等飛行兵曹 中川貞信/一等飛行兵 早坂庚四郎)


  105. ^ #S1701五航戦(参考)p.3『(ハ)寫眞 戰死者(寫眞各)』


  106. ^ #翔鶴海戦記57頁


  107. ^ #続海軍くろしお185頁


  108. ^ #翔鶴海戦記52頁(海軍中尉 藤田久良/飛行兵曹長 長光男)


  109. ^ #続海軍くろしお71-72頁

  110. ^ ab#S1704五航戦(経過)p.4『四月十日附秋雲朧ハ五航戦ヨリ除カル 四月十八日以降二十七駆五航戦司令官ノ指揮下ニ入ル』

  111. ^ abc#叢書49南東方面163頁『南洋部隊の空母要求』

  112. ^ ab#叢書49南東方面164頁


  113. ^ #叢書49南東方面165頁

  114. ^ abcde#叢書49南東方面167頁

  115. ^ abcdef#叢書49南東方面187-189頁『MO機動部隊』


  116. ^ #叢書49南東方面193頁『MO攻略部隊』


  117. ^ #S1612馬公警備府日誌(5)pp.28-29『一四(天候略)第五航空戦隊機密第383番電 瑞鶴翔鶴萩風秋雲舞風4月18日1400馬公到着ノ豫定錨地指定ヲ乞フ(略)』


  118. ^ #叢書49南東方面225頁


  119. ^ #太平洋の試練(下)114-119頁『次は珊瑚海と解読』


  120. ^ #叢書49南東方面226頁


  121. ^ #太平洋の試練(下)123頁


  122. ^ #続海軍くろしお79頁


  123. ^ #叢書49南東方面229頁

  124. ^ abcd#叢書49南東方面276-279頁『油槽船を空母と見誤る』


  125. ^ #叢書49南東方面282-285頁『祥鳳の沈没』


  126. ^ #海軍くろしお(文庫)177-178頁

  127. ^ ab#叢書49南東方面289-290頁『MO機動部隊の西進』


  128. ^ #太平洋の試練(下)163頁

  129. ^ ab#叢書49南東方面291-292頁『夜間収容による攻撃を策す』


  130. ^ #完本太平洋戦争上175-176頁『燃料ナシ着水ス』


  131. ^ #翔鶴海戦記65-66頁『敵空母近し!』


  132. ^ #完本太平洋戦争上174-175頁『着艦ヨロシキヤ』


  133. ^ #翔鶴海戦記67頁(戦死者一覧)


  134. ^ #続海軍くろしお189頁


  135. ^ #太平洋の試練(下)166頁『空母翔鶴を攻撃するが』


  136. ^ #ニミッツの太平洋海戦史56-57頁『五月八日の戦闘』


  137. ^ #叢書49南東方面305頁

  138. ^ abc#叢書49南東方面306-307頁『策敵機の米機動部隊発見』


  139. ^ #続海軍くろしお190-191頁


  140. ^ #翔鶴海戦記92-93頁(帰途でアメリカ軍機に撃墜されたと推定)

  141. ^ ab#叢書49南東方面307-310頁『敵空母攻撃』


  142. ^ #太平洋の試練(下)176頁

  143. ^ ab#叢書49南東方面318-320頁『戦果並びに被害』

  144. ^ abcd#叢書49南東方面315-317頁『攻撃隊の収容』


  145. ^ #翔鶴海戦記91頁(半沢行男兵曹長)


  146. ^ #翔鶴海戦記92頁(戦死者名簿一覧)

  147. ^ abc#叢書49南東方面311-313頁『米機動部隊の攻撃』


  148. ^ #太平洋の試練(下)168頁


  149. ^ #海軍軍医日記抄48頁、#続海軍くろしお198頁

  150. ^ ab#叢書49南東方面313-315頁『MO機動部隊の邀撃』


  151. ^ #太平洋の試練(下)172頁


  152. ^ #翔鶴海戦記77頁


  153. ^ #海軍美談111頁、#続海軍くろしお199-200頁


  154. ^ #翔鶴海戦記79-87頁(被害状況の写真あり)


  155. ^ #翔鶴海戦記88-89頁『戦死者名簿一覧』


  156. ^ #海軍軍医日記抄49頁


  157. ^ #海軍美談114頁、#続海軍くろしお202頁

  158. ^ abcd#叢書49南東方面317-318頁『MO機動部隊の北上』


  159. ^ #第7駆逐隊詳報pp.32


  160. ^ #翔鶴海戦記78、92頁


  161. ^ #軍医官日記151頁


  162. ^ #第七駆逐隊249頁


  163. ^ #叢書49南東方面327-328頁『五月九日の作戦』

  164. ^ abc#太平洋の試練(下)192-193『ポートモレスビー攻略を断念』


  165. ^ #ニミッツの太平洋海戦史58-59頁

  166. ^ ab『昭和18年3月25日(木)海軍公報(部内限)第4349号 p.5』 アジア歴史資料センター Ref.C12070430100 『○感状 南洋部隊機動部隊』

  167. ^ abcd#叢書38中部太平洋(1)603頁


  168. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫101-102頁


  169. ^ 戦史叢書43巻ミッドウェー海戦114頁


  170. ^ #S1705五航戦(経過)p.6『5月9日翔鶴ハ避退ノ途次主力部隊ニ編入呉回航ヲ命ゼラレ夕暮漣及第15駆逐隊ノ警戒下ニ5月17日1830呉着修理整備ニ従事ス』


  171. ^ 戦史叢書43巻ミッドウェー海戦114頁


  172. ^ #S1705五航戦(令達2)p.3『11日2200軍務局長/翔鶴船体工事ニ約三ヶ月(揚錨機械新築ヲ要スル場合ハ十月末完成)ヲ要スル見込ナル時横須賀ハ大鯨改造工事其ノ他ノ工事輻輳セルニ付同艦ノ修理促進上呉ニ於テ修復致度内海水道通過ノ際ハ曳船ヲ派遣スル等保安ニ関シ万全ヲ期セシメラルル予定』


  173. ^ #海軍美談118頁


  174. ^ #海軍美談119頁


  175. ^ #翔鶴海戦記94頁


  176. ^ #続海軍くろしお119-120頁


  177. ^ #翔鶴海戦記101-102頁


  178. ^ #翔鶴海戦記100頁

  179. ^ abc#続海軍くろしお204-207頁『天運と武運』


  180. ^ #海軍美談120・213頁、#続海軍くろしお207頁


  181. ^ #続海軍くろしお207-208頁

  182. ^ abcde#海軍美談214-217頁


  183. ^ #翔鶴海戦記6、92頁


  184. ^ #海軍くろしお(文庫)282-283頁


  185. ^ 『昭和17年10月27日(発令10月26日付)海軍辞令公報(部内限)第972号 pp.29-30』 アジア歴史資料センター Ref.C13072087400 


  186. ^ 『昭和18年1月6日(発令1月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1025号 p.8』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089000 


  187. ^ 『昭和18年2月25日(発令2月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1059号 p.15』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089800 


  188. ^ #翔鶴海戦記154-156頁『戦時中の海軍兵学校』


  189. ^ 『昭和19年8月11日(発令8月5日付)海軍辞令公報(甲)第1560号 p.11』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100500 


  190. ^ #海軍美談218頁

  191. ^ abc『昭和17年5月25日(発令5月25日付)海軍辞令公報(部内限)第866号 p.36』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085500 


  192. ^ 『昭和17年6月22日(発令6月20日付)海軍辞令公報(部内限)第886号 p.6』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085900 


  193. ^ 『昭和18年9月1日(発令9月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1203号 p.41』 アジア歴史資料センター Ref.C13072092900 

  194. ^ abc#叢書49南東方面540-541頁『聯合艦隊主力の南下』

  195. ^ abcdefg#叢書49南東方面545-547頁『第三艦隊戦策』


  196. ^ #S1707佐鎮日誌(4)pp.1-2『二十五日海軍大臣(宛略)幹部機密第九二八二號 航空母艦消防装置増加ノ件訓令』

  197. ^ abc#続海軍くろしお210-214頁『有馬艦長の決意』

  198. ^ ab#翔鶴海戦記105頁『翔鶴の応急防禦装置』

  199. ^ ab『昭和17年7月14日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第899号 pp.1-2』 アジア歴史資料センター Ref.C13072086300 


  200. ^ 『昭和17年7月14日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第899号 p.50』 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 


  201. ^ 『昭和17年7月22日(水)海軍公報(部内限)第4148号 p.38』 アジア歴史資料センター Ref.C12070413300 『○旗艦變更 第三艦隊司令長官ハ七月二十日旗艦ヲ翔鶴ニ變更セリ』


  202. ^ #草鹿回想150-151頁『艦隊の編制替え』


  203. ^ #翔鶴戦記103-104頁


  204. ^ #叢書49南東方面541-542頁

  205. ^ ab#叢書49南東方面563-566頁『機動部隊支隊の作戦-龍驤の沈没』

  206. ^ ab#翔鶴海戦記108頁(8月24日艦上・航空隊戦死者名簿一覧)

  207. ^ abc#叢書49南東方面572-573頁『本隊の作戦』

  208. ^ abcd#叢書49南東方面567-569頁『第一次攻撃』

  209. ^ ab#叢書49南東方面569-572頁『第二次攻撃』

  210. ^ ab#叢書49南東方面577-580頁『戦果及び被害』

  211. ^ abc#叢書49南東方面586-588頁『金龍丸及び睦月の沈没』


  212. ^ #ニミッツの太平洋海戦史121-122頁

  213. ^ ab#翔鶴海戦記110頁(派遣戦闘機隊戦死者名簿一覧)


  214. ^ #続海軍くろしお217-218頁


  215. ^ #翔鶴海戦記112頁


  216. ^ #海軍美談138頁、#続海軍くろしお218頁


  217. ^ #続海軍くろしお219頁


  218. ^ #連合艦隊の栄光(角川)215頁『南雲艦隊の航進体系』


  219. ^ #空母機動部隊(2010)146-148頁『早くも瑞鳳脱落』


  220. ^ #海軍美談149頁、#続海軍くろしお220頁


  221. ^ #続海軍くろしお221頁(野元瑞鶴艦長によれば、瑞鶴はレーダーを装備していないので、危機感が薄かった)


  222. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)31-32頁


  223. ^ #続海軍くろしお225頁『運命をになって』


  224. ^ #海軍美談167-168頁、#続海軍くろしお228頁


  225. ^ #翔鶴海戦記121頁

  226. ^ abc#海軍くろしお(文庫)252-256頁『翔鶴沈没を救ったもの』


  227. ^ #海軍美談152-153頁


  228. ^ #翔鶴海戦記140頁(翔鶴航空隊戦死者名簿一覧)


  229. ^ #原(復刻版)77頁


  230. ^ #空母二十九隻48頁『燃料計はついにゼロをさす』


  231. ^ #続・海軍くろしお231頁

  232. ^ ab#翔鶴海戦記130頁


  233. ^ #草鹿回想176頁

  234. ^ ab#続海軍くろしお233頁


  235. ^ #翔鶴海戦記132、138頁(翔鶴艦上戦死者名簿一覧)


  236. ^ 『昭和17年10月29日(木)海軍公報(部内限)号外 p.32』 アジア歴史資料センター Ref.C12070423300 『○勅語 官房機密第一三四七六號 本日聯合艦隊司令長官ニ對シ左ノ勅語ヲ賜ハリタリ 昭和十七年十月二十九日 海軍大臣|勅語 聯合艦隊ハ今次南太平洋ニ於テ大ニ敵艦隊ヲ撃破セリ 朕深ク之ヲ嘉ス惟フニ同方面ノ戰局ハ尚多端ナルモノアリ汝等倍〃奮励努力セヨ』


  237. ^ #S1711七戦隊日誌(1)p.22『11月1日1717第三艦隊司令長官/一.左ノ各艦(隊)ハ左記ニ依リ内地ニ帰投修理整備作業ニ任ズベシ(1)回航地 艦名:横須賀 翔鶴第四駆逐隊(萩風欠)、秋月/呉:熊野筑摩、第十七駆逐隊第1小隊秋雲 佐世保:瑞鳳、第十七駆逐隊第2小隊 (2)行動(イ)11月2日1400以後「トラック」発各回航地毎ニ先任艦長指揮シ回航スルモノトス。但シ呉佐世保ニ回航スルモノハ途中迄同一行動ヲ執リ分離時迄瑞鳳艦長指揮スベシ(以下略)』


  238. ^ #海軍美談172頁


  239. ^ #続海軍くろしお229頁


  240. ^ #海軍軍医日記抄70頁


  241. ^ #続海軍くろしお201-203頁『勝利の裏にあるもの』


  242. ^ 『昭和17年11月11日(発令11月11日付)海軍辞令公報(部内限)第985号 p.47』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088000 

  243. ^ abcd『昭和18年2月16日(発令2月16日付)海軍辞令公報(部内限)第1054号 p.45』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089700 


  244. ^ 『昭和18年2月15日(発令2月12日付)海軍辞令公報(部内限)第1053号 p.27』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089700 


  245. ^ #S1803五十航戦日誌経過p.2『(四)三月十日龍鳳修理完成同十七日諸試験終了ノ上十九日翔鶴ト共ニ東京湾発(警戒艦濱風響漣波風)内海西部ニ回航ス、右回航ノ際鹿屋飛行隊(艦攻艦爆各八機)及人員ヲ同艦ニ派遣搭載シ諸訓練ヲ兼ネ回航時ノ対潜警戒ニ任ゼシム 同艦ハ三月二十日内海西部着尓後訓練ニ従事ス』


  246. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.18『…翌十日機動部隊指揮官指揮ノ下ニ第八戦隊ヲ率ヰ0600同地發1230沖ノ島出撃「トラック」ニ回航15日着急速補給ヲ完了機動部隊第一部隊(8S 61dg)及第三部隊(日進)ヲ率ヰ14S(那珂)ヲ併セ指揮シ16日早朝「トラック」發ニテ搭載人員ヲ「ミレ」方面ニ輸送ノ予定ナシリ所…』


  247. ^ #S1709日進詳報(2)p.38『7月10日0530日進(宛略)日進玉波0500「トラック」ニ向ケ發|無電』-『7月14日0500瑞鶴→艦隊|日進冲鷹玉波嵐ハ列ヲ解キ日進艦長所定ニ依リ概ネ當隊ニ續行「トラック」ニ入泊スベシ|信号』


  248. ^ #空母二十九隻314-316頁『翔鶴(しょうかく)』


  249. ^ #撃沈戦記II82-84頁


  250. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.6『(2)中旬(略)玉波島風(翔鶴高雄愛宕)修理、待機』


  251. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.11『玉波 五日「ラバウル」對空戦闘迄32驅(早波藤波)ニ同ジ同日夕刻4S 7S等ノ警戒艦トシテ「ラバウル」發8日「トラック」着11日翔鶴愛宕高雄ヲ護衛「トラック」發15日横須賀着待機整備26日島風ト共ニ翔鶴ヲ護衛横須賀發』

  252. ^ abc『昭和18年11月18日(発令11月17日付)海軍辞令公報(部内限)第1264号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094500 


  253. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.14『島風 日章丸日栄丸船團ヲ護衛1日「トラック」着2日同「トラック」發途中敵潜ト交戦日章丸被弾、日栄丸ヲ護衛先行5日「ラバウル」發夕刻4S7S等ヲ護衛「ラバウル」發途中敵潜ト交戦8日「トラック」着/11日高雄愛宕翔鶴ヲ護衛「トラック」發15日横須賀着補給修理等実施26日玉波ト共ニ翔鶴ヲ護衛横須賀發』


  254. ^ #S1806二水戦日誌(6)p.36『二十六(天候略)2sd(能代)32dg(早波藤波)「ルオット」着 玉波島風0900横須賀発|玉波島風翔鶴ヲ護衛「トラック」ニ向ケ横須賀発』


  255. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.14『(玉波)島風ト共ニ翔鶴護衛1日「トラック」着(以下略)』


  256. ^ #S1812十戦隊日誌(1)p.15『一1610翔鶴(宛略)翔鶴機密第011610番電 翔鶴千歳玉波島風秋月谷風「トラック」着』


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    • 源田實『奇蹟の成功・真珠湾攻撃』/淵田美津雄『真珠湾上空一時間』/小瀬本国雄(蒼龍艦爆隊)『ハーミスを撃沈せり-インド洋作戦』/江間保(瑞鶴艦爆分隊長)『九九艦爆戦記-珊瑚海海戦』/長井純隆(第三艦隊作戦参謀)『南太平洋海戦の勝利』/千早正隆(元海軍中佐)『戦果ゼロ・マリアナ沖海戦』

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    • Ref.C13120034200 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年1月/4.参考』。

    • Ref.C13120034300 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年1月/5.作戦経過概要』。

    • Ref.C13120034400 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年1月/別表第1 特別空襲隊命令作第1号』。

    • Ref.C13120034500 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年1月/別図 行動図』。

    • Ref.C13120034600 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年1月/別表第2 特別空襲隊命令作第2号』。

    • Ref.C13120035000 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年2月/1.経過』。

    • Ref.C13120035100 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年2月/2.人員』。

    • Ref.C13120035200 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年2月/3.令達報告等(1)』。

    • Ref.C13120035300 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年2月/3.令達報告等(2)』。

    • Ref.C13120035400 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年2月/3.令達報告等(3)』。

    • Ref.C13120033500 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年2月/4.参考』。

    • Ref.C13120033600 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年2月/5.作戦経過概要』。

    • Ref.C13120033700 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年2月/作戦経過別表』。

    • Ref.C13120036100 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般の部)昭和17年3月/1.経過』。

    • Ref.C13120036200 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般の部)昭和17年3月/2.人員の現状』。

    • Ref.C13120036300 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般の部)昭和17年3月/4.参考』。

    • Ref.C13120036400 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般の部)昭和17年3月/5.作戦経過概要』。

    • Ref.C13120036500 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般の部)昭和17年3月/3.令達報告等(別紙第1)(1)』。

    • Ref.C13120036600 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般の部)昭和17年3月/3.令達報告等(別紙第2)(2)』。

    • Ref.C13120036700 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般の部)昭和17年3月/3.令達報告等(別紙第3)(3)』。

    • Ref.C13120036800 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般の部)昭和17年3月/機密5航戦日令第2号(別紙第2)』。

    • Ref.C13120037200 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/1.経過』。

    • Ref.C13120037300 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/2.人員の現状』。

    • Ref.C13120037400 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/3.令達報告等(1)』。

    • Ref.C13120037500 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/3.令達報告等(2)』。

    • Ref.C13120037600 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/4.参考』。

    • Ref.C13120037700 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/5.作戦経過概要』。

    • Ref.C13120037800 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/別図第5航空戦隊行動図』。

    • Ref.C13120037900 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/別紙機密MO機動部隊航空部隊命令作第1号』。

    • Ref.C13120038000 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/別紙機密MO機動部隊航空部隊命令作第2号』。

    • Ref.C13120038100 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/別表第5航空戦隊特定通信略語』。

    • Ref.C13120039900 『第5航空戦隊戦闘詳報 第5号(第1段第4期作戦に於けるC作戦コロンボ空襲)/1.形勢』。

    • Ref.C13120040000 『第5航空戦隊戦闘詳報 第5号(第1段第4期作戦に於けるC作戦コロンボ空襲)/2.計画』。

    • Ref.C13120040100 『第5航空戦隊戦闘詳報 第5号(第1段第4期作戦に於けるC作戦コロンボ空襲)/3.経過』。

    • Ref.C13120040200 『第5航空戦隊戦闘詳報 第5号(第1段第4期作戦に於けるC作戦コロンボ空襲)/4.令達報告等』。

    • Ref.C13120040300 『第5航空戦隊戦闘詳報 第5号(第1段第4期作戦に於けるC作戦コロンボ空襲)/5.計画』。

    • Ref.C13120040400 『第5航空戦隊戦闘詳報 第5号(第1段第4期作戦に於けるC作戦コロンボ空襲)/6.計画』。

    • Ref.C13120040500 『第5航空戦隊戦闘詳報 第5号(第1段第4期作戦に於けるC作戦コロンボ空襲)/7.計画』。

    • Ref.C13120040600 『第5航空戦隊戦闘詳報 第5号(第1段第4期作戦に於けるC作戦コロンボ空襲)/別図第5航空戦隊行動図』。

    • Ref.C13120040700 『第5航空戦隊戦闘詳報 第5号(第1段第4期作戦に於けるC作戦コロンボ空襲)/別図第5航空戦隊コロンボ空襲合戦図』。

    • Ref.C13120040900 『第5航空戦隊戦闘詳報 第6号(第1段第4期作戦に於けるC作戦ツリンコマリ空襲)/1.形勢』。

    • Ref.C13120041000 『第5航空戦隊戦闘詳報 第6号(第1段第4期作戦に於けるC作戦ツリンコマリ空襲)/2.計画』。

    • Ref.C13120041200 『第5航空戦隊戦闘詳報 第6号(第1段第4期作戦に於けるC作戦ツリンコマリ空襲)/3.経過』。

    • Ref.C13120041300 『第5航空戦隊戦闘詳報 第6号(第1段第4期作戦に於けるC作戦ツリンコマリ空襲)/4.令達報告等』。

    • Ref.C13120041400 『第5航空戦隊戦闘詳報 第6号(第1段第4期作戦に於けるC作戦ツリンコマリ空襲)/5.計画』。

    • Ref.C13120041500 『第5航空戦隊戦闘詳報 第6号(第1段第4期作戦に於けるC作戦ツリンコマリ空襲)/6.計画』。

    • Ref.C13120041600 『第5航空戦隊戦闘詳報 第6号(第1段第4期作戦に於けるC作戦ツリンコマリ空襲)/7.計画』。

    • Ref.C13120041700 『第5航空戦隊戦闘詳報 第6号(第1段第4期作戦に於けるC作戦ツリンコマリ空襲)/別図第5航空戦隊行動図』。

    • Ref.C13120041800 『第5航空戦隊戦闘詳報 第6号(第1段第4期作戦に於けるC作戦ツリンコマリ空襲)/別図第5航空戦隊ツリンコマリー空襲合戦図』。

    • Ref.C13120038500 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/1.経過』。

    • Ref.C13120038600 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/2.人員の現状』。

    • Ref.C13120038700 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/3.令達報告等(1)』。

    • Ref.C13120038800 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/3.令達報告等(2)』。

    • Ref.C13120038900 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/3.令達報告等(3)』。

    • Ref.C13120039000 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/4.参考』。

    • Ref.C13120039100 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/5.作戦経過概要』。

    • Ref.C13120039200 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/別図第5航空戦隊行動図』。

    • Ref.C13120039300 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/別紙機密5航戦日第4号』。

    • Ref.C13120039400 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/別紙機密5航戦日第7号』。

    • Ref.C08030728400 『昭和17年5月1日~昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(1)』。

    • Ref.C08030728500 『昭和17年5月1日~昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(2)』。

    • Ref.C08030728600 『昭和17年5月1日~昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(3)』。

    • Ref.C08030727700 『昭和17年5月8日 第7駆逐隊戦闘詳報.珊瑚海海戦』。

    • Ref.C08030045600 『昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。

    • Ref.C08030045700 『昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。

    • Ref.C08030337400 『昭和17年7月1日~昭和17年7月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(4)』。

    • Ref.C08030768400 『昭和17年11月~昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(1)』。

    • Ref.C13120190200 『第50航空戦隊戦時日誌 自昭和18年3月1日至昭和18年3月31日/1.経過』。

    • Ref.C08030586800 『昭和17年9月11日~昭和18年7月22日 軍艦日進戦闘詳報(2)』。

    • Ref.C08030048700 『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(6)』。

    • Ref.C08030101400 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。

    • Ref.C08030101500 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。

    • Ref.C08030101800 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。

    • Ref.C08030101900 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。

    • Ref.C08030050000 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)』。

    • Ref.C08030050100 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(2)』。

    • Ref.C08030050200 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(3)』。

    • Ref.C08030050300 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(4)』。

    • Ref.C08030050400 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(5)』。

    • Ref.C08030050500 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(6)』。

    • Ref.C08030036200 『昭和19年3月1日~昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌』。

    • Ref.C08030711900 『昭和19年6月15日~昭和19年6月20日 あ号作戦 軍艦翔鶴(除1部飛行隊)戦闘詳報』。

    • Ref.C08030039800 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)』。

    • Ref.C08030039900 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)』。

    • Ref.C08030040000 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(3)』。

    • Ref.C12070170800 『昭和17年5月~8月 内令/昭和17年5月(1)』。

    • Ref.C12070530400 『昭和20年8月 昭和20年11月 海軍公報(終戦関係)』。


関連項目


  • 空母

  • 大日本帝国海軍艦艇一覧

  • ダメージコントロール

  • 福地周夫

  • 有馬正文





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