安重根
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安重根 | |
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生誕 | (1879-09-02) 1879年9月2日 大朝鮮国 黄海道 海州 |
死没 | (1910-03-26) 1910年3月26日(30歳没)[注釈 1] 日本 租借地 関東州、旅順 |
別名 | 安應七(アン・ウンチル), 安多黙(アン・トマ) |
宗教 | キリスト教(カトリック教会) |
罪名 | 殺人罪(伊藤博文の暗殺) |
刑罰 | 死刑(絞首刑) |
配偶者 | 金亜麗(金亚丽、キム・アリョ) |
子供 | 安賢生(長女、1902年—1960年) 安文生[注釈 2](長男、1905-1917年) 安俊生(次男、1907年—1951年) |
親 | 父: 安泰勲(アン・テフン) 母: 白川趙氏[注釈 3] / 趙瑪麗亜(チョ・マリア)[注釈 4] |
安重根 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 안중근 |
漢字: | 安重根 |
発音: | アン・ジュングン |
日本語読み: | あん じゅうこん |
ローマ字: | An Jung-geun |
M-R式: | An Chung-gun |
安 重根(日本語読み: あん じゅうこん、朝鮮語読み: アン・ジュングン、朝鮮語ハングル表記: 안중근、1879年9月2日[注釈 5] - 1910年3月26日)は、大韓帝国時代の朝鮮の独立運動家[1][注釈 6]であり、1909年10月26日に前韓国統監の伊藤博文[注釈 7]を北満州のロシア帝国が権益を持つハルビン駅構内で襲撃した暗殺者でもある。ロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡され、1910年3月26日に処刑された。(テロリストか義士かの評価については下記)
目次
1 生い立ち
2 伊藤博文暗殺事件
2.1 準備
2.2 決行
2.3 身柄引き渡し
2.4 留置中
3 旅順での裁判
3.1 動機
3.2 弁護
3.3 判決
3.4 投獄と最期
3.4.1 獄中における日本人との関わり
4 遺骨
5 陰謀論について
6 評価
6.1 朝鮮
6.1.1 大韓帝国
6.1.2 大韓民国
6.1.2.1 反日シンボルとしての安重根
6.1.2.2 義兵闘争と国際法との関係
6.1.3 朝鮮民主主義人民共和国
6.2 日本
6.2.1 日韓諸氏の追悼会にて
6.3 中国
6.3.1 清王朝
6.3.2 中華人民共和国
7 安重根の子孫
7.1 安俊生
7.2 安賢生
7.3 安文生
8 記念碑
9 年表
10 関連作品
11 関連書籍(日本語文献)
12 脚注
12.1 注釈
12.2 出典
13 参考文献
14 関連項目
15 外部リンク
生い立ち
現在は北朝鮮にある黄海道の道都海州府首陽山の両班の家に三男一女[注釈 8]の長男として生まれた。
本人執筆の自伝によると、性格が軽急に近いので名(諱)を重根(중근、ジュングン/チュングン)と、胸腹に黒子が7箇所あったので字は應七(응칠、ウンチル、日本語読みでは「おうひち」)と名づけられたと言う[4]。実名敬避の習慣から通常は、安應七(アン・ウンチル)を名乗っていた。本人が重根を使い始めたのは暗殺事件の直前である[5]。
安の生家は資産家で、多数の土地から小作料を取って生活する大地主(地方両班)であり[6]、祖父・安仁寿が鎮海県監を務めるなど、地元の名家でもあった。父・安泰勲(三男[注釈 9])は幼少から英才として知られ、科挙を受けて進士に合格し、京城で開化派[注釈 10]の朴泳孝が選抜した70名の海外留学生に選ばれたが、1884年、甲申政変で開化派が失脚した影響で、学生も排斥され、立身の道を閉ざされた。この際に、仁寿は家財を売り一族を連れて信川郡青溪洞に移住して難を逃れている。また泰勲は朝鮮では当時西学や天主教と呼ばれていたカトリックに改宗し、洗礼名はペテロとした。
仁寿は教育に熱心で、6歳の應七を漢文学校に入れ、次いで普通学校で学ばせたが、14歳の時にこの祖父が亡くなると、應七は半年間学業を中断。父母と教師が、銃と狩猟を好み山野に入り浸る應七を叱責して学校には戻ったが、自伝によると項羽の故事成句を引用して「書は以て姓名を記するに足る」と友人に言い、父の様に学業で身を立てないと言っていた[7]。應七は不学をむしろ誇り、長じて、狩猟、銃、飲酒、歌舞、妓生、義侠を好む浪費家となった[8]。
1894年、16歳の時に金氏[注釈 3](キム・アリョ)を妻に娶り、後に二男一女をもうけた[9]。またこの年に甲午農民戦争(東学党の乱)があった。泰勲は東学党が郡内で外国人排斥や官吏を殺害して暴れまわっていたのを憂い、70名余の私兵を集めて自警団(いわゆる、民包軍[注釈 11][6]の1つ)を組織して青溪洞に避難民や宣教師を保護した。東学党・農民軍とも戦ってこれを撃退し、應七もこの時重傷を負ったというが後に全快した。しかし翌年、泰勲が東学党から奪った軍糧が、もともと魚允中[注釈 12]や閔泳駿の年貢米だったということで、国庫金の掠奪であると訴えられ、行賞されるどころか逆に賊の汚名を着せられた。泰勲は京城に赴き、法官に三度無実を訴えたが、聞き入れられず、判決もでなかった。そのうちに閔氏の手勢に襲撃され、安一族はパリ外国宣教会から派遣されていたフランス人のジョゼフ・ウィレム[注釈 13](빌렘、韓国名: 洪錫九)[10]司祭に匿われた。この一件の後、泰勲は布教に熱心になり、應七も洗礼を受けて[11]17歳で改宗し、洗礼名を「トマ(トマス)」とした[12]。
應七は熱心な信者となって、洪神父から数か月フランス語を学んで見識を広げたので、洪神父と西洋教育(科学)の大学校を開こうと相談した。それを閔主教に掛け合ったが、「韓国人にもし学問があっても信教によいことはない」と拒絶された。再三の要請が拒否された後、應七は厭いてしまい、「日本語を学ぶ者は日本の奴隷になり、英語を学ぶ者は英国の奴隷となる。もしフランス語を習得すればフランスの奴隷になるのを免れるのは難しい。もし韓国の威が世界に振るえば、世界の人も韓国語を用いることになる」から必要ないとして外国語学習を辞めてしまった[13]。
この頃、2つの刑事事件に関与した。1件は韓国人の官吏と軍人に搾取されていた友人を義侠心から助けようとして失敗したもので、もう1件では、病気の父泰勲を診察した清国人医師が、反清勢力である開化派であったとして飲んだ勢いで父に殴る蹴るの乱暴をしたというので、應七は怒って殴り込みをかけて相手を殴打した上に短銃を発砲して逃走したというものだった。この清国人は官憲に訴えて應七を逮捕させようとした。当時の韓国は外国に領事裁判権を認めており、清国領事は京城の外務部にこの事件を主管することを訴えていたので、應七は外務・法務大臣の李夏栄に嘆願してこの件が鎮南浦裁判所に回されるように手を回してもらった。韓国の裁判所では自国民に有利な判決がでるため、清国人は仲裁に応じて和解して、結局は事なきを得た。
1904年、日露が朝鮮半島などの植民地領有を巡って争った日露戦争が勃発したが、應七は日露の何れが勝っても韓国はその勝者の属国であると行く末を悲観。他方で應七は宣戦布告の文面にある「東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする」ためとする建前を信じていて、その大義を日本が守らないのは全て政治家が悪いのであり、伊藤博文の策略のせいであると考えていた、と自伝にある。しかし伊藤の勢力が今は強くこれに抵抗しても徒死するだけで無益だと、應七と泰勲は話し合い、清国の山東半島や上海には韓国人が多数居留していると聞いていたので、安一族も外国に亡命して安全を図るべきだと考えて、應七がまず下見に行くことになった。ところが、上海で旧知の郭神父が帰国するのに遭遇し、フランス人の彼により朝鮮民族(韓民族)の危機を諭され、外国に逃げたり、外国の力を借りて民族独立を計ろうというのは間違いであると指摘されて、大韓帝国の独立について二千万の同胞(朝鮮民族)が団結するべきという意見を持つようになったと言う。1905年、泰勲らは娘の嫁ぎ先や應七の妻の実家があった平安南道鎮南浦に引っ越していたが、12月、應七が帰国した頃には父はもう亡くなっていた。應七は父が死んだとの凶報を聞いて数回気絶したと自伝に書いている。父を青溪洞に葬った後、應七は大韓独立の日まで日常の飲酒を辞め、断酒をすることを決心した。
1906年、私財を投じて三興学校と敦義学校という2つの学校を設立した。1907年、父の知人金進士から白頭山よりも北方にある間島や海参崴(ウラジオストク)には韓人百数万人が居留して物産豊富であると教えられて、應七はロシアの地で事業を起こすことを考えるようになったが、先に資金を調達すべく平壌で友人の安秉雲らと石炭商を営み始めた。しかしこれに失敗[注釈 14]し、数千元という多額の金を失った。應七はこの頃、国債報償運動にも参加して大韓帝国が負った日本からの強制円借款の返済を目指していたが、探偵にきた日本人巡査と議論して殴られ、喧嘩した話が自伝にある。
この年の7月、伊藤博文が訪韓して第三次日韓協約が締結され、第二次日韓協約(1905年)にも内心では反感を持っていた高宗の指示により第2回万国平和会議へ派遣されていた密使が抗議活動をして、いわゆるハーグ密使事件が露見し、高宗は強制退位となり、皇太子に譲位するという一連の展開があった。軍隊解散とそれに伴う義兵闘争の高まりの中で国内が不穏となると[注釈 15]、應七は急に家族を置いて、安多黙と名乗って友人李照夏と共に間島へ渡った[14]。なお「多黙(도마)」は洗礼名トマの当て字である。しかし間島にも日本軍が進出していて、足の踏み場もないような状態だったので、各地方を視察した後、夏の終わりにロシア領に入ってウラジオストクに到着した。ここで青年会に参加して喧嘩で耳を負傷した。
ウラジオストクで知り合った李範允は、間島管理使として清国と戦い、日露戦争時にはロシアに協力して亡命中の人物で、應七は大韓独立のために兵を起こし伊藤を倒そうと議論したが、李に財政的準備がないと最初は拒否された。しかし別に厳仁燮[注釈 16]と金起龍[注釈 17]という2人の義侠と知り合ったので、彼らと義兄弟の契りを結び、厳を長兄・安を次兄・金を末弟とし、3人で韓国人を相手に義を挙げる演説を各地で行った。彼らは「日露が開戦した時に宣戦布告文で東洋平和の維持と韓国独立を明示しながらその信義を守らず、反って韓国を侵略して五箇条条約や七箇条条約を課し、政権掌握、皇帝廃位、軍隊解散、鉄道、鉱山、森林、河川を掠奪した」と日本を非難し、それに怒った「二千万の民族が三千里の国内で義兵として蜂起しているが、賊は強く義兵を暴徒と見なして殺戮すること十万に至る」と苦境を訴え、日本の対韓政策がこのように残虐であるのは「日本の大政治家で老賊の伊藤博文」のせいであり、伊藤は韓国民は日本の保護を受けて平和であると「天皇を欺き、外国列強を欺き、その耳目を掩うて」奸計を弄しており、よって「この賊を誅殺しなければ、韓国は必ず滅び、東洋もまさに亡びる」と演説して伊藤暗殺の同志を募り、一方で独立運動の火が消えてしまわないように義兵運動の継続も訴えたので、これに応じる者、あるいは賛同して資金を出す者があり、金斗星(金都世)[注釈 18]や李範充等と300名の義兵を組織することができた[注釈 19]。これをもって、1908年6月、咸鏡北道に進入して日本軍と交戦したと、自伝には書かれている。日本軍人と民間人とを捕虜としたが、万国法で捕虜の殺戮は禁止されているから釈放すべしという安と、日本人を殺しに来たのにそれをしないのはおかしいという仲間と口論して、部隊を分かち別行動をしたところで日本軍に襲撃されて散り散りになってしまう。その後、集結するも6、70名程度に減り、食料が無くなり、村落で残飯を恵んでもらう有様となり、仲間を探している途中で再度伏兵狙撃にあって部隊は四散した。数名で苦労して豆満江に戻ってきて、本人の言うところの「敗軍の将」として生還した。
1909年正月、同志12名[注釈 20][注釈 21]と共に「断指同盟」を結成して薬指を切り(指詰め)、その血で大極旗の前面に「大韓獨立」の文字を書き染めて決起した[15]。(日本政府の調査では、1908年4月頃に厳仁燮と金起龍と義兄弟になった際に、外2名[注釈 22]と共に盟約して、安と厳が伊藤博文の暗殺を、金らが李完用・朴斉純・宋秉畯の暗殺をすることに決めて、左手の薬指(無名指)を切ったという別の話を載せている[16]が、旅順監獄での警視の尋問に答えて4名での断指を否定し、12名であると言い、義弟で断指同盟の1人でもある金基龍と金起龍は別人で、金起龍は目的の達成を諦めて今は農業に従事していて事件には関与していないと主張した。[17])
大東共報(海朝新聞[注釈 23])の李甲が友人であったので、3月21日付紙面に安應七名義で寄稿し、大韓帝国の国権回復のために同胞に団結を訴えた[18]。国内外に同志を派して情勢を探り、同年9月頃、伊藤博文を暗殺することになった[19]。
伊藤博文暗殺事件
準備
明治42年(1909年)10月10日から15日の間、大東共報社を安重根・禹徳淳(医師)・曹道先の3名が訪問して、伊藤博文暗殺を議論し、活動資金を無心した。ロシア人社長ミハイルロップ[注釈 24]は若干の金を渡し[20]、寄稿文に共感していた編集長李剛から軍資金の100円[注釈 25]を借ると、安重根は禹徳淳と1909年10月21日(陰暦9月8日)朝にウラジオストク(浦潮)を出発し、10月22日、ハルビン市(哈爾浜)に到着した。両名はそれぞれブローニング社製のピストル、6連発と7連発を携行していた[注釈 26]。途中ボクラニチナーヤで下車して、劉東夏にロシア語通訳として同行を頼んだが、彼には計画は伝えなかった。この日、禹と劉と共にハルビン駅周辺を下見して記念撮影。列車の到着時刻などを確認した[5]。
ハルビンでは曹道先と合流。金成白(金聖伯)[注釈 27]の家に泊まった[20]。旅費がすでに30円しかなかったので、部外者の金から50円借りた。10月23日、妻子を迎えにいくと劉東夏には言い[20]、彼を残して3名で蔡家溝に向かった。24日、安は単独行動し、電報で大東共報の李剛に借金50円の返済を頼み、さらに1,000円送金してくれるように頼んだ[21]。同じく電報でハルビンの劉に伊藤の動向を問い合わせたが、内容が要領を得ないものだったので、禹徳淳と曹道先を蔡家溝駅で見張らせるために残して、25日(陰暦12日)に安だけがハルビンに戻った。結局、安はロシアで発行されていた漢字新聞『遠東報』[22]を見て翌日に伊藤が列車で来ることを知って、1人で決行することになった。安と劉はこの日は停車場に泊まった。安は劉から6円と金時計を貰い、逃走時に備えて、劉を500メートル程離れた場所に馬車で待機させた[20]。朝7時に停車場に姿を現し、安はさらに2時間喫茶店で時間を潰して列車の到着時刻を待った[23]。
決行
10月26日、伊藤博文公爵は当時枢密院議長(同年6月に韓国統監を退任。後任の統監は曾禰荒助)で、満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するために、外交団を連れてハルビン市に赴き、午前9時、哈爾浜駅に到着した。
ハルビン駅はロシアが利権を持つ東清鉄道の駅で、多数の路線があり、京浜線を通じて南満州鉄道の特別列車も入ってこられた。当時の満洲はまだ清国領であったが、日露戦争の結果として露清密約は破棄されたものの、路線と駅構内はロシアに管轄権があった。長春駅からは東清鉄道民生部部長アファナーシエフ少将や同営業部長ギンツェらのロシア側接待員も同乗して出迎えていた。伊藤・ココツェフの会談が市内に席を設けずに列車内で設定された背景には同地の治安の悪さがあった。
ココツェフは予定通りにロシア側の列車で先に到着して待っており、伊藤は日本側の列車車内を訪れたココツェフの挨拶を受けた。車内で20分ほど歓談した後、ココツェフがロシア側の列車に宴の席を設けていると招待したので、伊藤はこの招待を受けて、議員室田義文[注釈 28]と議長秘書官古谷久綱も列席することになった。列車を移る際に、ココツェフは伊藤に敬意を表すためにロシア兵を整列させたので閲兵してもらいたいと言い、伊藤は平服であったために一度辞退したが、ココツェフが重ねて希望したので一行は駅ホームに出て、整列したロシア兵の閲兵を受けることになった。
構内には清国兵もおり、外国領事や在留日本人の歓迎団なども控えていた。伊藤らが列になってロシア要人らと握手を交わしていたところに、群衆を装って近づいていた安重根が、ロシア兵の隊列の脇から手を伸ばし、10歩ほどの至近距離から拳銃を発砲した。彼は7連発銃の全弾を乱射した。自伝によれば、安は伊藤の顔を知らず、「顔が黄ばんだ白髭の背の低い老人」を伊藤博文であると思い、その人物に向けて4発[注釈 29]を発砲した。しかし人違いで失敗したとあっては一大事と考えて、「その後ろにいた人物の中で最も威厳のあった人物」にもさらに3発連射したと言う[24]。ただし事件直後の古谷秘書官の電報では、7連発銃のうち6発が発砲されたと報告されている[25]。(異説は下記)
伊藤には3発が命中した。伊藤を先導して前に立っていた哈爾濱総領事の川上俊彦[注釈 30]は、身を翻した際に銃弾が右腕から腹部に入り重傷を負ったが、この1発と合わせて4発が最初の連射[注釈 29]であろうか。伊藤のすぐ後ろにいて多くの弾丸を受けた[注釈 31]室田義文は奇跡的に軽傷であったが、紳士然としていた室田は伊藤に間違えられた可能性がある。室田を外れた流れ弾が、その後ろにいた宮内大臣秘書官森泰二郎[注釈 32]の右腕から肩にかけて通り抜けて軽傷、さらに満鉄総裁の中村是公の衣類、同理事の田中清次郎の右の靴も、それぞれ貫通した。
ロシアの捜査記録によると、最初2連射があって、安重根は3発目を左手を右肘に添えて冷静に狙い撃ったとされる。直後にロシア鉄道警察の署長代理ニキホルホ騎兵大尉が捕えようと飛びかかったが、安はこれを力づくで振り払って、銃撃を続けようとした[26]。日本の新聞が載せた安がロシア兵に向けて発砲したとの目撃証言[27]はこの動作であろう。騎兵大尉の妨害を受けながら撃ったために次の連射は著しく目標を外した。周りにいたロシア兵が加勢して安を地面に引き倒し、その際にピストルが手から落ちた。ロシア兵の証言では安は「最後の銃弾で自殺を試みたが、失敗したようだ」[26]と言うが、ここまでが30-40秒ほどの間の出来事である。
安はすぐにロシア官憲に逮捕された。停車場の一室に連行される際に、安はロシア語で「コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー!(Корея! Ура! / 韓国万歳)」と大声で三唱して叫んだ。後に供述したところによると、朝鮮語ではなくロシア語を用いたのは「世界の人々に最もわかる言葉を選んだ」ためであったと言う。
伊藤は胸・腹部に被弾して「三発貰った、誰だ」と言って倒れた。中村是公(または室田義文)がすぐに駆け寄って伊藤を抱きかかえ、ロシア軍の将校と兵士の介助で列車内に運び込んだ。同行の宮内庁御用係で伊藤の主治医小山善が治療にあたって止血を試み、歓迎のために駅に来ていた成田十郎ら日本人医師2名、ロシア人医師1名がこれを手伝った。古谷秘書官は本国に電報して凶報を、桂太郎総理と伊藤夫人に伝えた。伊藤は少しブランデーを口にして、しばらく意識があった。犯人は誰かと聞き、ロシア官憲からの報告でそれが朝鮮人だと聞いて「そうか、馬鹿な奴だ」と一言、短く言った[28]。伊藤は森も被弾したと聞いて心配していたが、森の傷は軽傷であり、対して伊藤のものはすぐに助からぬとわかる重傷。桂内閣に提出された小山の診断書によると、3ヵ所の盲管銃創でうち2つが致命傷だった[29]。第1は右上膊中央外面からその上膊を穿通(貫通)して第七肋間に向かい、恐らく水平に射入したもので、胸内に出血が多く、恐らく弾は左肺の内部にあるとされた。第2は右肘関節外側からその関節を通じて第九肋間に入り、胸腹を穿通し、左季肋の下に弾を留めていた。第3は上腹部中央において右側から射入し、左直腹筋の中に留まっていた[30]。伊藤は次第に衰弱して昏睡状態に陥り、約30分後に死亡した。
身柄引き渡し
暗殺事件の発生にロシア側は驚愕した。ココツェフはまず電報局に急ぎ、電報でナポリに外遊中だった皇帝ニコライ2世とペテルブルクの駐ロシア大使本野一郎に急報した後に、11時15分ごろ、日本側の要請で伊藤に最後の別れをするために特別列車に戻ってきた。ココツェフは少々取り乱していて、随員に犯人の詳細と謝罪とを伝えると、遺骸の前に跪いて哀悼の意を表した。
日本側はできるだけ早くハルビンを離れることに決め、中村がロシア側と交渉して列車をそのまま長春に向けて出発させることを了承させた。11時40分にはハルビンを発車して午後4時頃長春に到着。そこから満鉄で大連に向かった。早くも10月28日午前11時に伊藤の亡骸は大連港から、イギリスのキッチナー元帥を歓迎するために来港していた軍艦秋津洲に載せて、急ぎ横須賀に送り出された。このため大連においては、キッチナーも清の東三省総督錫良と共に、大連の停車場にて、伊藤に弔意を示す機会があった。
一方、満州鉄道関連施設で捜索権を持っていたロシア官憲は、すぐに背後関係を調べて20名余を尋問し、8名を新たに拘束した。逮捕したロシアではこれらを韓国国籍者と断じて、日韓協約により韓国人の管理指揮権を持つ日本の管轄として即座に日本当局への送致を決定した[31]。安重根ら9名は結局ロシア公館に2日間拘留されたが、日本領事館に移送されて(後述する法律の定めにより)領事官による形式的な取り調べを受けた。前10月27日に外相小村壽太郎が本件を関東都督府地方法院に送致する命令を出していたので、そこからさらに旅順の日本の司法当局に引き渡された。
このように日露間の協力がスムーズにいったのは事前の取り決めがあったからである。2年前の1907年、金才童(キム・ジェドン)がハルビンで日本人を殺害した事件で、ロシアが裁判を主管する権利を主張したことがあり、このときに小村外相が、第二次日韓協約(1905年)によって在外韓国人の保護は日本の管轄になったこと、同じく同条約により日本を介する以外で対外交渉できない韓国政府とは協議する必要はないことを、川上総領事に訓令して対処させ、金を引き渡させたことがあった[32]。翌年、日本は明治四十一年法律第五十二号(満洲ニ於ケル領事裁判ニ関スル件)を制定して国内法を整備し、同法第三条「満州に駐在する領事館の管轄に属する刑事に関し国交上必要あるときは外務大臣は関東都督府地方法院をして其の裁判をなさしむる事を得る」の規定[33]により裁判管轄の行政手続きをはっきりと定めていた。清国は韓清通商条約により韓国人に治外法権を認めていたので、国内で起きた事件であったにも関わらず、一切干渉することはできなかった。すなわち大韓帝国の委任により日本の主管で裁判は処理されることになるわけである。
他方、事件は劉東夏も驚愕させた。彼は安が暗殺を決行したことを知ってその場から逃走し、酷く狼狽して金氏の家に帰ってきて、冷水を飲んで精神を落ち着ける必要があった[20]。しかし前述のように彼もまた芋蔓式にロシア官憲に逮捕されている。
留置中
安重根は、ピストルのほかに短刀も所持しており、逮捕時に押収された。尋問したロシア国境管区のミレル検事によると、安は最初は非常に興奮した様子だったが、自分の身元や犯行の動機について淡々と供述したと言う。ただしこの時「暗殺は自分一人の意志でやったことで、共謀者はいない」[26]との嘘の供述もした。安は動機を「祖国のために復讐した」とだけ語った。ミレル検事は安の声の調子について「傲慢な声だった」[26]と表現している。連行される際には伊藤は生きていたので、安は暗殺の成否を知らなかったが、この14時間の尋問の最中に伊藤の死亡を知った。安は暗殺成功を神に感謝して、事務室の壁に掛かっていた聖像の前で祈りをささげ[26]、十字を切って「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生を我が祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べた[34]。
一方、新聞は伊藤の暗殺をトップニュースで伝え、速報では兇漢は「二十歳ぐらいの朝鮮人」とし、第一報(28日付)で犯人の氏名は「ウンチアン[35](またはウンチヤン[36][16])」として平壌出身の31歳と報じた。一部の新聞はこれに「雲知安」の当て字をして、後に2度偽名を用いていたと伝えているが、偽名を使っていたわけではなかった。当時(朝鮮)統監府の警視であった相葉清[注釈 33]の回顧によれば真相はこうである。1909年10月26日夜遅くに事件の報せがあり、「ウン・チアンという朝鮮人が伊藤統監[注釈 34]を殺した。彼に関する調査記録を送れ」との指令を受けた。統監府には非常招集がかかり、深夜に幹部会議が開かれたが、不逞鮮人名簿に「ウン・チアン」という氏名はなかった。そもそも「ウン」という姓の朝鮮人が国勢調査では記録がなかったのだと言う。そうするうちに1人の課長がロシア検察が調査した名前であれば洋式に名・姓の順で表記したのではないかと指摘した。なるほど「アン・ウンチ」と読んでみると似た発音の「アン・ウンチル(安應七)」が名簿から出てきて、安應七が安重根なる者であることが判明したのだと言う[5]。日本の新聞が犯人を安應七とするのは詳報が入った11月2日付前後、これが安重根に代るのは予審が始まって被告の姓名が公示されてからであった。
新聞で事件を知った洪神父は、大韓帝国のカトリック教会からは大罪を犯した安重根にサクラメントを施してはならないという命令が出されたにもかかわらず、議論において殴り合うほど[37]懇意であった彼のために予審中に旅順を訪れて、心の支えとなった。安は収監中に官吏に対して、應七ではなく自分を洗礼名「多黙」と呼ぶよう主張したといわれる。ただし死刑執行命令記録原本には、氏名を安應七と明記しており、應七と呼ばれていた可能性が高い[38][22]。
旅順での裁判
安重根は旅順の関東都督府地方法院で、まず1909年11月13日(伊藤博文の葬儀から9日後)、予審を受け、これが11月16日に結審した後に重罪公判に移された[39]。連累者は曹道先、禹徳淳、卓公圭、金麗水、金成玉、劉東夏、鄭大鎬、金衝在の8名[注釈 35]。うち曹、禹、劉の3名以外は不起訴となった。殺人罪および合併罪、殺人未遂罪を問われた本裁判も、引き続き関東府地方法院で行われ、第1回公判は1910年2月7日で、5回目の公判で最終弁論となり、公判開始からちょうど一週間後に判決の言い渡しとなった。
動機
安重根は真鍋十蔵[注釈 36]裁判長により決行後に逃亡や自決をしなかったのはなぜかと尋ねられると、伊藤公爵を斃すことが目的ではなく韓国義軍(大韓義軍)の参謀中将として韓国独立東洋平和を成し遂げるのが終生の事業であり、自殺や逃走など卑劣なまねはせず一刻でも長く生きて(裁判で)日本の暴挙を世界に告発すると言った。裁判長から公爵が命を落とし随行員3名も負傷したことをどう感じているのか問われると、安は随行員の負傷は気の毒であるが、伊藤の死は年来の願望であったと述べた。さらに裁判長から切断された小指のことを尋ねられると、同志と血書をしたためた経緯を説明し、義軍の総大将である金都世[注釈 18]という人物の自分は部下であり、彼が同胞の司令官であると述べた[40]。
予審において特に注目を集めたのが動機である。検察官溝渕孝雄に動機を尋ねられた際に、安は下記のような伊藤博文を暗殺した15の理由を列挙した[41]。この有名な15条は明治42年当時の新聞で広く日本や世界に公表された[39][42]。
- 今ヨリ十年バカリ前、伊藤サンノ指揮ニテ韓国王妃ヲ殺害シマシタ。
- 今ヨリ五年前、伊藤サンハ兵力ヲ以ッテ五カ条ノ条約ヲ締結セラレマシタガ、ソレハミナ韓国ニトリテハ非常ナル不利益ノ箇条デアリマス。
- 今ヨリ三年前、伊藤サンガ締結セラレマシタ十二ケ条ノ条約[注釈 37]ハ、イズレモ韓国ニトリ軍隊上非常ナル不利益ノ事柄デアリマシタ。
- 伊藤サンハ強イテ韓国皇帝ノ廃位ヲ図リマシタ。
- 韓国ノ兵隊ハ伊藤サンノタメニ解散セシメラレマシタ。
- 条約締結ニツキ、韓国民ガイキドオリ義兵ガ起リマシタガ、ソノ関係上、伊藤サンハ韓国ノ良民ヲ多数殺サセマシタ。
- 韓国ノ政治、ソノ他ノ権利ヲ奪イマシタ。
- 韓国ノ学校ニ用イタル良好ナル教科書ヲ伊藤サンノ指示ノモトニ焼却シマシタ。
- 韓国人民ニ新聞ノ購読ヲ禁ジマシタ。
- ナンラアテルベキ金ナキニモカカワラズ、性質ノヨロシカラザル韓国官吏ニ金ヲ与ヘ、韓国民ニナンラノ事モ知ラシメズシテ終ニ第一銀行券ヲ発行シテオリマス。
- 韓国民ノ負担ニ帰スベキ国債二千三百万円ヲ募リ、コレヲ韓国民ニ知ラシメズシテ、ソノ金ハ官吏間ニオイテ勝手ニ処分シタリトモ聞き、マタ土地ヲ奪リシタメナリトスト聞キマシタ。コレ韓国民ニトリテハ非常ナル不利益ノ事デアリマス。
- 伊藤サンハ東洋ノ平和ヲ攪乱シマシタ。ソノ訳ト申スハ、日露戦争当時ヨリ、東洋平和維持ナリト言イツツ、韓皇帝ヲ廃シ、当初ノ宣言トハコトゴトク反対ノ結果ヲ見ルニ至リ、韓国民二千万ミナ憤慨シテオリマス。
- 韓国ノ欲セザルニモカカワラズ、伊藤サンハ韓国保護ニ名ヲ借リ、韓国政府ノ一部ノ者ト意思ヲ通ジ、韓国ニ不利益ナル施設ヲ致シテオリマス。
- 今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。
- 伊藤サンハ、韓国民ガ憤慨シオルニモカカワラズ、日本皇帝ヤ、ソノ他世界各国ニ対シ、韓国ハ無事ナリト言ウテ欺イテオリマス。
上記のうち5つは第三次日韓協約に関するものであるが、伊藤との関連については少しも関係がないものや関係性がよくわからない風説の類も散見され、「大韓独立主権侵奪の元凶」[43]として、伊藤を朝鮮支配の象徴とし偶像化していたことが伺える。伊藤が統監を務めていた1906年から1909年までの約3年の間に、統監府は保護国化を進め、朝鮮の軍隊を解散させて、それに抵抗して蜂起した兵士と民衆を力づくで鎮圧した。一説には、支配に抵抗した朝鮮人が17,000人以上殺害され特に暗殺前年の1908年には11,000人以上が殺害されたと言われることから[44]、その憎むべき統監府の長たる伊藤個人が元凶であると考えた安の認識は、当時の朝鮮人一般のそれと大差ないものであった。現在の韓国では、統監府に対する反対運動は“義兵”[注釈 38]と見なされ、義兵闘争または抗日義兵戦争と呼ばれ、日本からの独立戦争の始まりと位置づけられている[44]。安重根の述べた義兵[注釈 39]と、実際の義兵運動との関わりを具体的に示す史料が存在するわけではないにも関わらず、義兵を独立運動の初めとし、安を独立の英雄とした事情から、韓国では両者は密接な関係にあったと信じられ、「大韓義軍」は高宗から直接支援を受けた軍事組織の1つだ[45]と言われているが、本人が執筆した自伝にすらそのような話はなく、論拠には乏しい。(下記も参照)
他方、公判において溝渕検事は、政治的動機を否定して私怨による犯行という筋書きを持って裁判を進めたので、これを論破するために本裁判においても、安が挙げら暗殺理由に対する疑問や歴史観、抗日活動に関する質問を盛んに交わしており、その内容は訊問調書に記録されている。義兵中将という発言も自らには伊藤を殺す資格があったという主張の中に登場したものである。しかし安は日清戦争や日露戦争が東洋平和を維持し韓国の独立をはかるための戦争だったという肯定的な認識を述べ、「伊藤さんのよからぬ政略」[46]がそれを妨げているから「私の思っていることを、直ちに日本の天皇に上奏して」[46]くれるようにと述べて、日韓協約も韓国の独立のための宣言であったという検事の指摘には、「それは信じられません」と答えた。国際公法を知っているかという質問には「全部は知っていませんが、一部は知っています」[46]と答えているが、万国公法の適用を訴えながらも本件がそれに該当しないことを知らなかった。
安は「日本が韓国に野心があろうがなかろうが、それはどうでもいいことです。東洋の平和ということを眼中に置いて、伊藤さんの政策が誤っていることを憎むのです」[47]と述べ、「日本の天皇の宣言は、韓国の独立をはかり東洋平和を維持すると述べておられるのに」[47]伊藤と日本の政治が「この悲惨な事実を言わないで、偽りだけを述べている」ことが伊藤個人を狙った理由であるとした。韓国皇室については君主制度に問題があるとしながらも、日本が韓国皇太子の教育に尽力したことには「韓国民が非常に感謝」[48]していると述べた。安は日本や天皇に対して一定の敬意を表明していて、日本国や天皇ではなく、伊藤という政治家が個人的に悪いのだということに彼の意見は帰着する。別の日の陳述で、伊藤は韓国の逆賊であるだけでなく日本の大逆賊でもあり、伊藤が孝明天皇を殺したという14番目の理由の説明を口にしかけた時には、過激発言であるとして真鍋裁判長の判断で公聴は途中で中断され、傍聴人には退廷が命じられた[注釈 40][49]。
弁護
安重根らが逮捕されたと知った大東共報は募金公募した[20]。安の弟安定根は、兄の写真で5種類のはがきを作り、ハワイに300枚、サンフランシスコに500枚を送った[22]。集まった金のうち1万円の大金で英国人弁護士ダグラスなる人物を雇い、2,400円を家族の保護のための費用に当てた[20]。韓国人弁護士にも多数志願するものがあったが、これらの選任は真鍋裁判長によって却下されたため、結局、安には2人の日本人の官選弁護人が付くことになった。
官選弁護士の1人であった鎌田正治は、まず、清国での犯罪について韓国人に対して裁判権が及ばないこと、韓清通商条約を理由に治外法権があるために清国領土内における韓国人の犯罪には韓国刑法を適用すべきことを指摘して、日本帝国刑法が主管する本法廷の管轄外であると主張したが、これは前述の理由で真鍋裁判長に退けられただけでなく、安本人も人を殺して裁く法がないとは道理が合わぬと不満を述べる始末だった[50]。次に主任官選弁護士水野吉太郎が、安の行動と幕末の志士とを比較して、安は朝鮮の志士であるという弁論を展開して、情状酌量を求め、殺人罪としては最も軽い懲役3年が妥当であると主張した[51]。しかし判決では、結局、裁判長は政治的背景の考慮を認めず検察の言う私怨説に近いものを採用した。
判決
判決は、1910年2月14日午前10時30分頃、ロシア法学士ヤブゼンスキー夫人、韓国人弁護士安秉瓉、ロシア弁護士ミカエローフおよびロシア領事館員、安の従弟安命根(安明根)、そして多数の日本の新聞記者が傍聴する中で、真鍋裁判長によって言い渡された[52]。安と共犯3名は全員が有罪判決を受けた。
午前11時、量刑ついて話が及ぶと、共犯者とされた禹徳淳は懲役2年、曹道先及び劉東夏には懲役1年6ヶ月の判決が下された。禹は安が暗殺を計画していると知ってピストルを渡した殺人幇助の罪だけでなく、弾丸を用意し、実行直前には蔡家溝駅で見張りをしてその犯行を助けた殺人予備罪に問われた。曹道先と劉東夏はロシア語通訳として働いたのみとされ、幇助罪のみが問われた。実行犯であり、殺人罪に問われた安重根には死刑が宣告された。
公判で以前に単独で暗殺を計画したが未遂に終わったと供述した禹は判決に異存を述べず、曹も同様に黙っていた[注釈 41]が、通訳として同行しただけで暗殺計画について全く知らなかったと供述した劉は「早く家に帰してくれ」と言って、泣きだした[52]。しかし連累者の刑としては比較的短期であり、軽かったことには朝鮮や欧米でも驚きがあったと言う[53]。安は自分は捕虜であり裁判そのものが不当であると憤慨した[34]というが、すでに死刑は覚悟の上であり、5日以内に控訴できることが説明されると、安はさらに意見を言うには控訴しなければならないのかと通訳を通じて質問するなど、平然としていた。(下記も参照)
投獄と最期
裁判を統轄した判事は、死刑執行までには少なくとも判決後2、3か月の猶予が与えられるとしていた。しかし内地の日本政府は、事件の重大性を鑑みて死刑の速やかな執行を命じた[38]。また看守を増員して監視し、周辺の巡回警備を強化するなど、奪回の動きも当局は警戒していた[38]。
安は上訴を行ってさらに政治主張を述べようとしていたが、そのようなことをしても棄却されるか上訴審が非公開となるだけだと考えた水野弁護士が「朝鮮の志士が死を恐れるために控訴」したと思われると諭したため[54]、2月19日、上訴を取り下げることに安も同意して、刑が確定した。
安は公判中から許可を得て自伝である「獄中記(安応七歴史)[注釈 42]」を書き進めており、3月15日にこれを脱稿した。彼はさらに「東洋平和論」を書き始めたので、担当検察官として次第に懇意となった溝渕に、書き終えるまでの時間的な猶予と、死刑の時に身に纏う白い絹の衣装を一組の都合を願い出た。獄中には洪神父や安定根・安恭根の実弟2人も面会に来た。絹衣装は他からも提供されたが、死装束の純白の韓服は安命根が用意して本人に渡された。1週間程度[注釈 43]で書いた「東洋平和論」は、結局序文を書き終えたのみで短い文章で終わった。また安は日本人看守らに人気で、求められるがままに多数の墨書も書き残している。
3月26日、刑場に向かう前、弟達との最後の面会が許された。これには水野と鎌田の両弁護士も同席した。
安は弟達に妻子の面倒を頼んだ。また安は熱心な信者で、死ぬまでカトリック信仰を持ち続け、妻への最後の手紙では、自分の息子[注釈 44]は聖職者になるようにと書いたという[34]。
同日午前9時、伊藤の月命日と絶命した時刻に合わせて、死刑が執行された。立会人には、溝渕孝雄(検察官)、園木末喜(通訳)、栗原貞吉(典獄)、水野吉太郎(弁護士)らが列した。安がキリスト教の祈祷をする猶予が与えられた後、栗原が被告に死刑執行文を読み聞かせ、遺言の有無を尋ねた。安は別に遺言はないが、臨検する諸君が「東洋平和のために御尽力される」ことを願うとだけ言った。9時4分ごろに絞首台に登り、安が最後の黙祷をした後、15分後に絶命した[55]。水野は安の志を尊重して執行後に皆で「東洋平和のため万歳三唱」することを願い出たが、刑務官に許されなかった[54]。
安の遺体は、医師の検死の後、栗原が特別の厚意で事前に用意していた棺に納められて、一時、監獄内の教会堂に安置され、共犯者として同監獄で受刑中の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名で告別式が行われた。弟の安定根・安恭根が安の遺体を貰い受けることを嘆願したが、拒否され[38]、午後1時には旅順共同墓地内に埋葬された。(関連話)
安の死から更に5か月後の8月29日に、日韓併合により大韓帝国は消滅した。初代総理大臣の伊藤博文を暗殺した安の死刑を執行した関東都督府の当時の都督大島義昌は、後の総理大臣の安倍晋三の高祖父にあたるという巡り合わせがある。(関連話)
獄中における日本人との関わり
投獄された旅順監獄の看守で、安重根の監視の担当となった千葉十七は、当初は伊藤を暗殺した安を憎んでいた。ところが、話を重ねるごとに千葉は安の思想に共感を覚えるようになっていった[56]。安は処刑の直前、千葉に向かって「先日あなたから頼まれた一筆を書きましょう」と告げ、「為国献身軍人本分」と書いて、署名し薬指を切断した左手の墨形を刻印した。そして彼は、「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったという。千葉は終生、安の供養を欠かさなかった。
旅順監獄の典獄(刑務所長)であった栗原貞吉も、安に感化された1人で、安の願いを聞き入れ、煙草などの差し入れをしたり、法院長や裁判長に掛け合い、助命嘆願をするなど便宜を図っていた。処刑前日には、彼も絹の白装束を安に贈った[57]。また前述のように栗原は安のために厚い松板で拵えた特別な棺を用意していた。死刑執行後、栗原は安の死を惜しんで、しばらく後に退任して故郷の広島に帰った。
安を朝鮮の志士と称した主任弁護士で、高知出身の水野吉太郎も手帳に安重根の親筆を得ていた[58]。前述のように彼は処刑の朝の面会に同席したが、この時に腹を割って話して交感したので、安からキリスト教に改宗するように勧められ、「天国で共に語り合おう」と言われている[55]。
別の看守の八木氏も安の墨書[59]を記念に書いてもらって持ち帰り、2004年、孫の八木正澄氏が韓国に無償で寄贈した[60]。
それより前の1970年代に、日本から韓国大統領府(朴正煕時代)に寄贈された安の遺墨宝物第569-4号[61]は、現在所在不明である。2012年の韓国大統領選挙では、投票日の9日前に、安度眩(詩人)がこの墨書は「(娘である)朴槿恵が盗んだのではないか」と示唆する内容の記述をTwitter上に書き、物議を醸した。その後、彼はこれが中傷であるとして名誉棄損で刑事告訴され、有罪判決を受けた[62]。
遺骨
旅順監獄の共同墓地に葬られた安重根は、遺言として解放後の韓国への移葬を希望していたが、35年後には葬られた場所の所在を知るものがおらず、墓と遺骨は紛失したままである。韓国ではしばしば日本軍が隠した等の主張がされることがあるが、同監獄の日本人医師古賀初一や、同様に処刑されて共同墓地に埋葬された李会栄の子と孫も、安の墓を参ったことがあると言い[63]、特に隠されたというより単に裏山にあったとされる共同墓地が管理されなくなって正確な場所が分からなくなったに過ぎない。
1992年、韓国が中国と国交回復した後に一部関連資料が発見され、安の遺体埋葬推定地の調査も行われた。韓国と北朝鮮は2005年から2007年にかけて文献調査をした後、共同調査団を構成して旅順監獄の現地調査をしたが、特に成果はなかった[63]。
李明博大統領は、その任期中に安の死から100周年を迎えることから、2008年[64]
と2010年[65]に、安の遺骨問題を担当する国家報勲庁に発掘調査を行わせたが、監獄西北の野山(約6600平方メートル)という広大な範囲を調査して、何も見つけることが出来なかった。このため日本側に埋葬資料の提供を要請していた。
これを受けて、民主党の松本剛明衆院議員は、被害者である伊藤博文の玄孫にあたる縁から、2011年に外務大臣に就任した後に「遺骨関連記録を必ず探し韓国側に引き渡したい」と述べた[66]が、結局、何の進展もなかった。
そのため、以後もたびたび韓国側は遺骨の関連記録の提出を日本政府に要求している[67]。
陰謀論について
事件当時から情報が錯綜したため、被害者や犯人の数について様々な憶測が流れた。1909年10月27日付の各新聞の中にも、三井物産会社着電をもとに「五六名の韓国人に狙撃され」たと報じたものや、大連発本社着電をもとにした東京日日新聞の「歓迎者に混じ居たる韓人数名に狙撃され」たと報じたものがあり、逮捕者も蔡家溝で新たに「拳銃を持てる朝鮮人2名を捕縛」と報じられていたため[68]、これらを原因として複数犯の印象が最初に広がったことは事実であろう。しばらくした後に目撃者談をまとめた新聞報道[69]と安の供述[24][70]、そして秘書官等の電報[25]とは、総合して見ればほぼ符合していることがわかるが、襲撃では何発が発砲されたか、狙撃手は1人か複数かには異説があり、単独犯行ではなかったという主張や、背後に国家的陰謀があったという主張がある。
- 複数犯説
- 室田義文の逝去ほどなく公刊された『室田義文翁譚』 には、伊藤に当たった弾丸は、安のピストルが発砲したものではなく、階上から撃たれたフランス製のカービン銃の弾で、駅の二階の食堂から発砲されたと書かれていて、彼は狙撃手は少なくとも2名であったと主張していた[71]。室田は「犯人は安重根ではない」との主張を当時から持っていたと言うが、外交上由々しき問題となるので否定されたのであると、説明している[72]。ロシアは暗殺に関与したと疑われることを恐れ、日本も日露関係の悪化を恐れて、警備の責任を問うたり深く追求したりしなかった。室田によれば、彼は真相究明を求めて後に抗議したと言うが、真犯人探しが外交問題に発展するということで山本権兵衛が反対[注釈 45]して、日本の官憲によって抗議の声は封殺されたのだという[73]。
- いくつかあるこのような説においては、安重根は事件の真相を闇に葬るための人身御供に意図的あるいは結果的になったのだとされ、後世様々な黒幕が議論されたが、名前が挙がったのは明石元二郎、杉山茂丸、後藤新平などである。[74][75][76]
- 鉄砲玉(首謀者は別人説)
- キリスト教系の秘密結社とアメリカの陰謀という説が、事件2日後の東京日日新聞に載った[77]。背景としては米清同盟の推進などが挙げられている。
- ロシア国籍の朝鮮人の崔才亨[注釈 46](新聞では「崔歳享」)が暗殺を命じたという説も当時の新聞で報道された[78]。
- 当時、外務書記官として満州にいた本多熊太郎は、在ハルビン朝鮮人を牛耳るロシア国籍の金某が安重根に手引きしてやらせたものであると断言し[79]、事件後、この機会にハルビンやハイラル等にあった朝鮮独立運動の拠点を根絶やしにするとして、外務省が協議して、金某を含めロシア国籍の不逞朝鮮人2、3名はロシア政府がシベリア奥地に移住させ、それ以外の不逞鮮人20名余りは東清鉄道に監獄列車を借りて朝鮮に送り返したと書いている[79]。
評価
安重根への評価は、下記のように様々で、時代によって変遷して、国や人によって大きく異なる[80][81][82]。特に日韓の安の評価の違いは、日韓両国の永続的な確執の象徴になった[83]。
朝鮮
大韓帝国
- 兇徒(皇帝、太皇帝、政府要人など)
大韓帝国の皇室は日本への配慮を重視し、太皇帝高宗は亡くなった伊藤博文を「韓国の慈父」と評して哀悼の意を示した。当初は犯人は外国人であろうとしたが、日本にいた王世子が報道で知って兄の皇帝純宗に「伊藤氏が我が国の人間の『凶手』にかかった」と電報を発してきたことから、純宗は急ぎ天皇に宛てて電報を送り「本日伊藤公哈爾賓に在りて兇徒の為に難に逢うの報に接し驚愕痛恨に堪えず」[84]と打電。高宗も「恥ずかしさの極限」であるとして陳謝した[85]。- 事件翌日、すぐに内閣総理大臣李完用が皇帝勅使として、承寧府総管趙民熈が太皇帝勅使として、総監府の人間と共に計20名余の使節団が大連に派遣され、伊藤の亡骸を出迎えにいった[84]。さらに首都では、歌舞音曲が禁止されるなど、徹底した自粛が行われた[86]。
- 1910年1月7日、韓国十三道民衆代表の謝罪使として鄭寅昌と宋鶴昇が来日して、大井村谷垂墓地を参詣し、朝鮮の礼儀で哀悼を示して、伊藤の墓の前で弔文を読み哭礼の儀を行った[87]。「謝罪団」も参照
- 英雄(朝鮮の人々)
- 『「伊藤倒れる」の報に朝鮮の人々は快哉を叫び、安重根を英雄として称えた』[88]。
大韓民国
- 義士
韓国では、安重根は抗日闘争の英雄と評価される「義士」と称され、国民的英雄とされる[89][81]。大韓義軍参謀中将[45]であったとか、特派独立軍司令官[90]、将軍とも称される[45]が、安本人が裁判で自分の地位を陳述した以外では、これらの肩書きに根拠はない。ソウル特別市には安の偉業を伝える「安重根義士記念館」が1970年に建設されている[91]。
韓国海軍では、2008年に完成した孫元一級潜水艦3番艦の艦名に彼の功績を称えて「安重根」と命名した[92]。同様の理由でテコンドー界でも、型の名前に彼の名が用いられている(国際テコンドー連盟4級で習得する安重)。- 伊藤博文暗殺から100年に当たる2009年10月26日には、ハルビンで記念式典が開催された[93]。2013年、韓国大統領の朴槿恵は6月の訪中で、中華人民共和国主席・習近平に対して、殺害現場であるハルピン駅に安重根の石碑建立を提案して実現にむけて協力を要請した[94]。後述するがこれは実現した。また同館には着ぐるみの安重根があり、これが日本ではテロリストをゆるキャラ化する非常識と報道された[95]。
在日本大韓民国民団は、2014年3月26日に東京で開催された安重根の追悼式で「安重根義士がテロリストではなく、東洋の平和を切に願った義人だという事実を、日本国政府も知るべきだ。今後、安義士の思想が東洋平和の礎となるよう努力していく」と表明した[96]。
反日シンボルとしての安重根
- 韓国では安重根はしばしば反日のシンボルとされ、国際的なスポーツ大会(特にサッカー)でも彼の肖像画の横断幕が使われる事があり、2013年7月28日に行われた東アジアカップ・日本対韓国戦でも、『歴史を忘れた民族に未来はない』という横断幕[注釈 47]と共に、安重根と李舜臣の肖像が掲げられた[97]。これは2014年9月28日のアジア大会のサッカー男子準々決勝の日韓戦でも繰り返されたが、EAFFと違ってFIFA公認大会のため、禁止されている応援時の政治的な活動にあたるとして批判を受けた[98]。
- 韓国でも伊藤の暗殺だけでなく、彼の唱えた「東洋平和論」やその思想を証明する教育啓蒙活動は活発であるが、非常に一面的である。裁判での陳述や東洋平和論を読む限り、安自身は反日を主張しておらず、(白人支配への)日朝中の共闘を呼びかけているに過ぎない。これは看守など獄中での日本人との親しい交流でも明かで、安重根の日本観[99]は、不幸な形で誤解されている。君主主義者である安は、日韓の皇室に敬意を払い、政道を正すために奸臣を取り除こうとしたのであり、自らを忠義の臣であるとした。「王や皇帝に誤りはなく、悪い臣下がいるから政道を誤るという」[99]考え方は日本の右翼人士と共通する志向であったので、彼らの共感を得たのである。しかし韓国では親日はタブーであり、安重根は一面的に反日の英雄としか見なされていない。
2014年8月には、韓国の小説家であるキム・ジョンヒョン[注釈 48]が、安重根が現在にタイムスリップしてスナイパーとなり、日本の現職首相である安倍晋三を狙撃するという『安重根、安倍を撃つ』なる小説を発表し、韓国でベストセラーとなった[100]。- 2016年5月3日、AOAが、ケーブルテレビOnStyle(en:OnStyle)の番組『チャンネルAOA』で、人物の写真を見て名前を当てるクイズで、安重根の写真を見て豊臣秀吉[101]や伊藤博文[102]と答えた。これに対して非難が殺到したため、13日にソーシャル・ネットワーキング・サービスで「大韓民国国民としての歴史について慎重な姿勢をお見せできず反省しています」(ソリョン)、「無知こそ最大の間違いであることを学びました」(ジミン)と謝罪した[101]。5月16日に行われたライブ公演でも涙を流しながら謝罪した[103]。
義兵闘争と国際法との関係
- 韓国の義務教育期間である中学校の歴史教科書によると「義兵将として国内外で抗日戦を展開していた安重根は、初代統監としてわが国侵略の先頭に立っていた伊籐博文がロシアの代表と会談するためにハルビンに到着したとき、彼を射殺して民族の独立の意志を明らかに示した。」[104]とあり、韓国では義兵が自らを国際法上の交戦団体として承認するように各国大使館に要求していたことから、これが独立のための軍隊であったと主張され、安重根はその軍(つまり大韓義軍)の軍人であったとされている。確かに、安本人も裁判で自分は「戦争に敗北した捕虜」であり、日本の国内法で裁かれることに不満を述べ、「万国公法(国際法)によって処理される」ことを希望したが、この主張にはいくつか重大な問題があった。
- まず、当時、義兵を交戦団体に認定した外国政府はなかった。多くても30名程度の名前しか見つけられない大韓義軍が、武装勢力だったとしても、国境の外に多数に存在した独立軍の一つに過ぎず、(事件を起こすまで)特に目立つ存在ではなかったことは明らかである。そして仮に交戦団体であったと仮定するにしても、そこで生じるのは戦時国際法を守る義務である。銃弾を受けた伊藤博文と随行員のすべてが文民であり[注釈 49]、現場となったハルビン駅も該当紛争の中立国清国内のロシア管理区域で、交戦地域ではなく、さらに安は平服で軍籍を示すような徽章の類を示していなかった。1909年当時、すでに日韓はハーグ陸戦条約に加盟しており、自らが軍隊であると主張するのであれば戦時国際法を遵守すべきであるが、複数の点[注釈 50]で明らかに違反するか、少なくとも捕虜の待遇を求めるには不十分であった。また大韓義軍関係者は上海やウラジオストクなどで活動しており、仮にロシアや清国が交戦団体であったと見なせば、彼らの活動を許したロシアや清国には中立国義務違反が生じる恐れがあった。安の希望した国際法を適用すると、これらの周辺国との問題に発展した。ロシアが速やかに安の身柄を日本側に引き渡したのはこのためで、日本もあくまでも刑法犯として裁いた。
- 韓国においても「安義士が正式に軍隊に属したこともないので将軍と呼ぶのはふさわしくない」という意見もあり、李明博政権時代の大韓民国国家報勲処は義士であって将軍ではないという立場であった[45]。
朝鮮民主主義人民共和国
- 反面教師(金日成政権)
北朝鮮においては、神話的に喧伝される金日成の抗日パルチザンに比して、まず安重根には両班という出身に矛盾があり愛国的ではあったものの解決策を持たず手段も目標も誤った人物と捉え、安重根の救国の意志は認めるものの、その手段としての「暗殺」は評価しない。「北朝鮮では彼を愛国者と評価しつつも金日成氏のような偉大な指導者に出会えず志を遂げられなかった人物として、それほど評価は高くない」[105]。- かつて北朝鮮の教科書では金日成の反面教師のように扱われたが、これは安重根が黄海道海州の両班(ヤンバン 李氏朝鮮国の官僚になる特権を持つ貴族)、すなわち社会主義国家の建設のためにおこなう階級闘争によって淘汰さるべき支配階級であったためとされる[106][107]。
- 個人テロ(金正日政権)
- 2009年10月24日付けの週刊誌『統一新報』では「歳月が流れても祖国と民族のために捧げた愛国者の人生は、民族の記憶の中に永遠に残ることになる」としながら「卓越した指導者にめぐり会えず個人テロに頼らざるを得ず、ついには命を投げ打っても独立の念願を果たせなかった民族の風雲児」であるとした[108]。
- 烈士, 安重根=金基宗(金正恩政権)
- 2013年から2014年における日韓の安重根論争に際して、金正恩政権の北朝鮮も、朝鮮労働党機関紙『労働新聞』が1月26日付の記事で見解を発表した。日本政府が安を「テロリスト」と呼んだことについて、「反日愛国の烈士をむやみに冒涜すべきでない」と批判。同日、北朝鮮のメディアとしては初めて、朝鮮中央放送と平壌放送が、記念館の設置についても触れた[109]。
2015年3月5日にマーク・リッパート駐韓米国大使が襲撃事件に遭うと、北朝鮮の祖国平和統一委員会は、襲撃犯である金基宗(キム・ギジョン)容疑者を、伊藤博文を暗殺した安重根に例えて賞賛した。これに韓国では光復会などが反撥したが、朝鮮中央通信は「米帝の戦争策動に反対する義を重んじた行動がテロならば、日帝の朝鮮侵略に反対して伊藤博文を処刑した安重根など反日愛国志士たちの義挙も日本反動どもが冒涜しているようにテロだと呼ばねばならないのか」と主張した[110]。(関連話)
日本
- 兇漢(明治政府の見解)
- 明治42年(1909年)11月7日に朝鮮統監曾禰荒助が総理大臣桂太郎に提出した調査報告書では端的に「兇漢安重根」とされ、平壌で曹成煥[注釈 51]に排日教育の指導を受けて、間島で李相卨[注釈 52]の門下生となった人物で、同氏がハーグに旅立ったために、ロシア領で活動中の崔才亨[注釈 46]と合流したとされている。同報告書は、安を「無頼の徒」にして「粗暴」と簡単に評価する一方で、関係人物を網羅的に調べ、大東共報が在米韓国人からの運動支援の窓口とされていることに着目して、期せずして最大の支援国となっていたアメリカ(本土およびハワイ)からの資金の流れに強い関心を持っていた[16]。
- 志士(汎アジア主義的立場)
- 事件当時に限れば明治日本の人々[注釈 53]の中には、安重根は単身で要人暗殺テロを完遂した汎アジア主義者の志士であるとして共感する者もおり、看守には助命嘆願をした者もいたほどだった。現在でも、刑務所の職員が求めた揮毫が何点か現存している。
- 初期の汎アジア主義者は、アジアの諸民族は団結して(白人の)植民地や半植民地的な状態から脱すべし、という立場であったので、民族主義者の独立運動を是認する傾向にあったからで、安の書いた「東洋平和論」はこの汎アジア主義に極めて近い思想であり、日本の右翼にも共感できる部分が少なからずあった。
- 安は韓国皇室と同様に日本皇室にも敬意を払った君主主義者であり、韓国支配の象徴的存在の外臣・伊藤の暗殺は、自民族の独立を願う志士の純粋な行動としては、幕末の勤皇志士につながるところがあり、安重根の裁判を担当した日本の検事が「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆の声をあげたほどだった。これは立場が違っても、相手を忠義の志士と見れば、一定の敬意を払う武士道的倫理観によるものである。「一人殺せば十人の義兵」[注釈 54]と言った安重根の思想は、戦前右翼の一人一殺の思想[注釈 55]に似た点があり、戦後新右翼の代表的な論客であった野村秋介も、安を「尊敬する歴史上の人物」に挙げていた。
- ただし、刺客をもって志士と呼び、外国の人士をもって日本の武士道で礼賛することに批判がなかったわけではない。右翼活動家志賀直方の禅の師匠である三浦了覚は、安重根や李在明[注釈 56]をもって志士仁人と見なすのは容易ならざる誤謬であると言い、彼らのような「道理の是非を誤認し天下の大勢に通ぜず偏頗なる識見を盲信して其の相手の敵を狙撃するもの」は「是れ正義人道の上より論断せば悪しむべき危険物にして少しも同情を与えるべき余地を発見せず」と書き、キリスト教徒の信者である安重根・李在明が天国を信じて「正義人道を根本より破壊したる凶悪を逞したる」だけであって、これを日本の武士道や志士のように見なすことはできないと批判した[111]。
- これらは一例ではあるが、評価は右翼においても毀誉褒貶分かれており、その後、テロに奔った朝鮮独立運動が日本国内での評判を悪くし、汎アジア主義が日本のアジア支配を根幹とした東亜新秩序を目指す立場に変質すると、志士との肯定的な評価は難しくなった。
- 政治犯
1984年、社会党の新村勝雄衆院議員は、安を含む韓国統治時代の「政治犯」の名誉回復を提起したが、当時の外相だった安倍晋太郎は、明確な答弁を避けた[86]。安重根を政治犯とする主張は、左派にしばしば見られたが、行為そのものは犯罪であり、肯定するものではないが、その行動の政治的理由を勘案して一定の赦免は与えられるべきという立場であった。- 韓国の愛国者[112]/ 義兵運動・独立運動家[1]
朝鮮日報は2013年11月21日の社説で『1982年に日本の歴史教科書は安義士を「壮士」と表現した。日本語の「壮士」にはヤクザやチンピラという意味合いがある。日本の極右勢力の主張が今や日本政府の公式見解になってしまったのだ。』[89]と書いたが、実際には「壮士」と記述したのは扶桑社/自由社のものだけで、1982年でもなかった。山川出版社の世界史用語集によると、安重根は「韓国の愛国者で、伊藤博文を朝鮮亡国の元凶とし1909年ハルビンで暗殺。刑死した。」[112]とあり、そもそもほとんどの教科書に登場しない語句である。伊藤の暗殺に関連して名前が出てくる程度であり、独立運動家や民族主義者など簡単に表現されることがほとんどで、テロ行為そのものの評価にまで踏み込んでいる日本の教科書は存在しない。- 暗殺が韓国併合を促進
- 併合反対派で韓国の近代化に尽力した伊藤博文の暗殺が韓国併合を早めたとか[113]、併合の切っ掛けとなった[114]という言説がしばしば語られる。ドナルド・キーンは暗殺は大韓帝国の消失という皮肉な結果をもたらしたと評する[34]。近代史における研究では、伊藤博文研究者の伊藤之雄京都大学教授が近年発見された伊藤のメモに「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があったことから「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的だった事を裏付けるもの」[115]とするように、確かに伊藤は韓国を日本の被保護国に留めることを志向して併合に慎重な立場であったが、彼は韓国統監時代には韓国の国権接収などに関与し、最後には併合を決める閣議決定も了承していた[116]。よって併合はすでに既定路線で、暗殺が切っ掛けとなって併合が持ち上がったわけではないが、事件後、これとは別に一進会による日韓合邦運動などあって結果的にはやはり加速され、曾禰統監のもとで着実に進められることになった[注釈 57]。渡部昇一は「伊藤博文が韓国人の安重根によってハルピンで暗殺されたが、これによって韓国併合が急速に進んだ」[118]と言う。「一進会」および「韓日合邦を要求する声明書」も参照
- 犯罪者、テロリスト、死刑判決を受けた人物
- 日本では前述の2013年7月28日のサッカー日韓戦の際にも、政治色の排除が求められるスポーツイベントで、「テロリストの似顔を描いた大垂れ幕をサポーター席に掲げた」という批判[119]があったが、同じ頃、長く不具合が指摘されていた潜水艦安重根が公開されたこともあって、艦名がテロリストの名前ではないかとする日本との認識の違いが話題になっていた[120]。
- そういった中で同年11月、韓国の朴槿恵が6月に中国に依頼して建立を目指していた安重根の石碑が実現しそうであるということなって、安倍内閣の官房長官菅義偉は2013年11月19日の記者会見で、「わが国は、安重根は犯罪者であると韓国政府にこれまでも伝えてきた」[121][122]と述べ、日韓関係のためにはならないと不快感を示した[123]。官房長官の発言に韓国メディアはこぞって猛反発し、20日、韓国の尹炳世外相も国会答弁で「容認できない」と抗議したが、官房副長官の世耕弘成は「伊藤博文を殺害し、死刑判決を受けた人物だ。それに尽きる」と述べて反論した[124]。池田信夫はニューズウィーク誌コラムでこの経緯を評して、暗殺事件から100年以上たって記念碑を立てようという朴槿恵を批判し、安重根は「伊藤博文を暗殺したテロリスト」[125]であり、「テロリストを英雄として賞賛することも先進国では考えられない」と長官の発言よりも強い表現で述べた[125]。
- 2014年1月20日、抗議を無視してハルビン駅に安重根記念館がオープンされると、菅官房長官は再び発言し、平和に資するものではないと「極めて残念で遺憾だ」と述べ[126]、「安重根は我が国の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリストだと認識している」[127]との政府見解を一旦明らかにした上で、中韓に外交ルートで抗議するとした[126][128][129]。韓国メディアはこれにも猛反発[130]し、韓国外交部も「歴史の良心に目を閉ざす菅官房長官を糾弾する」と報道官名義の論評を出し、韓国与党セヌリ党の洪文鐘事務総長は21日に安義士がテロリストなら日本はテロ国家だとの異例の発言をした[131]。翌2月に国会で新党大地の鈴木貴子衆院議員からの質問主意書に対し、安重根は「伊藤博文を殺害し、死刑判決を受けた人物」であると政府答弁書に記することを閣議決定した[132]。これが現在の政府見解となっている。
- 月刊誌『Voice』(2014年3月から2015年3月)上で早坂隆は『テロリスト・安重根』連載し、後に『愛国者がテロリストになった日 安重根の真実』として出版。安の英雄・義士像を否定する主張を展開した。ケント・ギルバートは、テロを礼賛する韓国社会の方を批判し[133]、リッパート駐韓大使襲撃事件後には、さらに強く[134]テロリストの安重根と金基宗の共通点を述べてテロリストを礼賛する危険を主張した[135]。
日韓諸氏の追悼会にて
- 義士
- 2018年9月10日、東京銀座に安重根を義士とたたえる人々が韓日両国から集まった追悼会にて、朝日新聞元ソウル支局長小田川興は安は「100年前に国連の思想を提示」したと述べ、法政大学の牧野英二教授は、安の記した『東洋平和論』をドイツの哲学者カントの『永久平和論』と関連づけて解釈している人物だが、「哲学者の立場から安重根義士の平和思想を研究し、韓日関係をより近くするのが目標だ」と述べた[136]。
中国
清王朝
- 亡くなった伊藤博文を哀悼
- 伊藤博文暗殺の現場となったハルビン市は当時は清王朝の領土であったが、駅はロシア権益に属した[注釈 58]ため、清朝の権限は及ばなかった。それで直接責任を持つ立場になかったが、前述したように、東三省総督・錫良が清朝を代表して伊藤の亡骸を見送って哀悼した。
中華人民共和国
- 無評価
- 安重根が「日本の首相経験者を暗殺した人物」として高い知名度を持っている[137]が、中国政府は、安重根の評価は反日勢力を刺激し、国内の社会不安を増大させるとして、積極的な評価は行っていなかった[137]。
- 1980年から1990年代末にかけ中国で学んだ人物によると、中国の教科書には『安重根が伊藤博文を暗殺したことが火種となり、日本は韓国を併合し、中国侵略への準備を加速させていった』との記述があったと記憶しているとのことで、安重根についての説明はなかったという[114]。またこれは暗殺事件が併合のきっかけになったという説に沿った見解であった。
2006年には、韓国人によってハルビン市に4.5mの安重根の銅像が建設されたが、「外国人の銅像建設は認めない」として当局により撤去された[138]。伊藤暗殺から100年にあたる2009年10月26日には同市で記念式典が開かれることになったが、ハルビン駅近くの中央大街公園広場での開催は許可せず、朝鮮民族民芸博物館での開催となった。また旅順市の戦争陳列博物館で安重根の特別展が開かれたが、「国際抗日烈士展示館」と安重根の名前は出さない曖昧なものにさせ、慰霊や記念式典は認めなかった[137]。- 義士/抗日戦士
- 従来、朝鮮族の民族主義が、中国共産党が掲げる中華民族の主張に矛盾するため、その分離主義の主張を嫌って中国は積極的に評価しないのではないかと言われていたが、2013年11月20日、中華人民共和国外交部報道局の洪磊副報道局長は「安重根は歴史的に知られた抗日の義士で、中国でも尊重されている」と会見で初めて韓国寄りの発言をした[139]。
2014年1月20日、同じく洪報道官は「安重根は著名な抗日戦士で、中国人民は尊敬している。中国は、国内の関連規定により記念施設を設立していて、理にかなっている」として記念館のオープンを説明し、日本の抗議を受け入れない旨を表明した[140]。また9月24日、ハーグで中韓首脳が会談した際、習近平主席は記念館の「建設は私が直接指示を下した」と述べ、さらに光復軍に関する記念館建設についても言及した[141][142]。- この中国の方針の変化は、単に日中関係の悪化によるものではないという分析もある。中国はアジアにおけるアメリカ合衆国の同盟構造を脆弱化させることを狙っており、記念館建設によって韓国人の中国人に対する好感度を上げることで、アメリカの安全保障上の土台である日韓の関係の溝を一段と広げようという政策であったというのである[83]。
安重根の子孫
安俊生
- 安重根の次男・安俊生は、出生前に父がウラジオストクに行ったため、父とは面識はなかった。事件後、母に連れられ満洲、シベリアなどを流浪し、上海租界に在住。杭州の大学を卒業した。1939年、内鮮一体の活動の一環で上海在留朝鮮人の「満鮮視察団」に加わり[143]、一行は10月9日に朝鮮総督府を訪れて総督南次郎と面談。11日に平壌で解散した後、俊生は数名の同行者と10月15日にソウルに建立された博文寺を訪問。伊藤博文の位牌に対して焼香し、父安重根の追善供養も同寺で行った[143][144]。さらに10月16日には、朝鮮ホテルで伊藤博文の息子である伊藤文吉(貴族議員、日本鉱業社長)と面会し謝罪した[145][86]。10月17日、安俊生と伊藤文吉、中村美智[注釈 59]の3名で、博文寺で合同参拝を行った。暗殺者と被害者がその双方の子孫によって同時に供養されるということで、内鮮融和のイベントは滞りなく完了した[143][注釈 60]。
- ところが、この話を新聞で知った韓国独立運動家の金九[注釈 61]は、「南総督[注釈 62]を父と呼んだ」と(プロパガンダに過ぎない)報道を鵜呑みにして激怒し、俊生は「韓奸」であるとみなして殺害を図った。金九は当時重慶にいた蒋介石に、俊生は変節して不法なことに手を染めてアヘン売買を上海で行っているから厳重に処罰するようにと強く依頼し[143]、逮捕して絞首刑にするように主張した。しかしそのような嫌疑はなかったので上海の当局はその要請を無視。俊生は上海で薬局を営んでいて実際に殺されることはなかったが、終戦後もしばらく帰国をためらい、1946年の母の死後、俊生はようやく帰国。韓国でひっそり暮らし、朝鮮戦争中に釜山に避難しているときに、デンマーク国籍の病院船内で結核で死去した。このような事情から俊生は親日派との批判をしばしば受け、後世による弁護と批判とが相反する。
- 俊生の子(つまり安重根の孫)安雄浩は米国に移民して中国系女性と結婚。さらにその息子(つまり曾孫)のトニー・アン・ジュニアはすっかり「韓国語もしゃべれない米国人」[146]になってしまったが、暗殺事件104周年記念で韓国を訪れた[146]。
安賢生
- 安重根の長女・安賢生(日本名:大川安子)は、事件があったときは8歳だったが、すぐに出国した母と弟とは分かれて、父が懇意にしていたフランス人神父の保護を受けながら明洞聖堂の修女院で暮らし、5年後に帝政ロシア末期のウラジオストクに亡命して家族と合流。革命とシベリア出兵の混乱を避けて、中国・上海フランス租界に移り、フランス文学と美術を勉強した。25歳で黄一清(日本名:大川清一)と結婚。賢生は満鮮視察団には同行しなかったが、夫は同租界の電車会社の車掌監督で、その夫が再び訪朝した際には同行して、1941年3月に博文寺を参拝して、弟と同様に伊藤博文を慰霊した[143]。この模様も京城日報によって報道されているが、彼女に関しては名指しでの殺害指令は出されておらず、参拝した時期は日本軍による上海租界の占領の前であるが、弟と同じ行為をしたにも関わらず現在の韓国でも親日派の扱いを免れている。
- 帰国後はソウル在住。朝鮮戦争時に大邱に移り、大邱曉星女子大(大邱カトリック大学)で教職についた[147]。1960年にソウルで死去。墓は江北区にあり、最近整備された[148]。
安文生
- 安重根の長男。字を芬道(ブンド)。亡くなった年には1911年と1917年の二説ある。「1917年に”日帝”の密偵あるいは巡査によって毒殺された」と韓国ではいわれているが、根拠のない俗説であり、信憑性はほぼない。病死。
記念碑
- 日本
- 元看守の千葉十七(及びその妻)の墓がある宮城県栗原市(旧若柳町)の大林寺には、1981年に安重根の顕彰碑が建立された。これは千葉十七が安から贈られた「為国献身軍人本分」と書かれた墨書を、遺族が安重根の生誕100周年(1979年)に際して韓国に贈ったことへの返礼として、遺墨を刻んだ碑が立てられたものである。碑の裏には山本壮一郎県知事(当時)の「日韓両国永遠の友好を祈念」の文字が刻まれ、1992年9月6日からは日韓合同で毎年、安重根・千葉十七夫妻の合同供養が執り行われている[149]。
- 2011年、佐賀県佐賀市の無量寺に「安重根東洋平和祈願碑」の碑が建てられた[150]。
- 韓国
ソウル特別市内に、安重根義士記念館があるほか、その近くに安重根の銅像がある。
- 中国
- 2006年、ハルピン内に銅像は一度建てられ、中国当局により撤去させられたことは前述[138]の通りであるが、銅像が禁止であるため、今度は石碑をハルピン駅内に造るとされていたが、結局は日韓・日中関係の悪化によって、中国政府は記念碑の設置を格上げして「安重根義士記念館」として2014年1月19日に完成させ、翌日から一般公開した[151]。前回揉めた銅像も設置されている。韓国は「歓迎し、高く評価する」[151]と発表したが、日本は上記のように抗議した。
- ロシア
- 2002年、ソウル保健神学研究院と提携したことがきっかけで、ウラジオストク国立医科大学の構内に安重根をたたえる記念碑を建立したが、翌年、学内のリニューアル工事のために撤去された[152]。
年表
1879年9月2日、黄海道道都海州府首陽山(北朝鮮)で両班の家に生誕
1884年、甲申政変で開化派の進士安泰勲(父親)追放
1894年、16歳で結婚
- 甲午農民戦争
- 甲午農民戦争
1902年、長女・安賢生生誕
1904年、安泰勲死去
1905年、長男・安文生(-1917)生誕
1906年、私財を投じて2つの学校(三興学校と敦義学校)を設立
- 石炭商の事業に失敗 → ウラジオストクへ
1907年、次男・安俊生生誕
1908年、金斗星(金都世)の配下で義兵運動 → 敗退
1909年正月、断指同盟を結成(指詰め)
- 10月、大東共報社で活動資金を無心
- 1909年10月26日、ハルビン駅で伊藤博文を射殺
- 11月13日、関東都督府地方法院で裁判(予審)開始
1910年2月14日、裁判結審・死刑判決
- 3月15日、獄中記を脱稿
1910年3月26日、絞首刑を執行
関連作品
- 小説
卜鉅一『京城・昭和六十二年 碑銘を求めて』1987年
韓碩青 著 金容権訳『安重根』1997年- 第一部:生成篇 ISBN 4-87893-289-9
- 第二部:超人篇 ISBN 4-87893-290-2
- 第一部:生成篇 ISBN 4-87893-289-9
キム・ジョンヒョン『安重根、安倍を撃つ』2014年
- 映画
- 『安重根と伊藤博文』(ビデオ邦題。DVD邦題は『安重根 伊藤博文を撃つ』、1979年、北朝鮮、演:リ・インムン)
- 『ロスト・メモリーズ』(2002年、韓国、演:オ・セホン)
- 『多默安重根』(2004年、韓国、演:ユ・オソン)
関連書籍(日本語文献)
- 『朝鮮統治史料 第5巻 (民族運動)』韓国史料研究所 1970年
中野泰雄『安重根 日韓関係の原像』亜紀書房 1984年
谷譲次『安重根 十四の場面』五望書房 1989年
佐木隆三『伊藤博文と安重根』文芸春秋 1992年 のち文庫
斎藤充功『伊藤博文を撃った男 革命義士安重根の原像』時事通信社 1994年 のち中公文庫
斎藤泰彦『わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯』五月書房 1994年- 鹿嶋海馬『伊藤博文はなぜ殺されたか 暗殺者・安重根から日本へ』三一新書 1995年
- 中野泰雄『安重根と伊藤博文』恒文社 1996年
津留今朝寿『天主教徒「安重根」 私の中の安重根・日本と韓国』自由国民社 1996年- 市川正明『安重根と朝鮮独立運動の源流』原書房 2005年 明治百年史叢書
- 廣瀬爲人、斎藤泰彦『わが心の安重根遺された硯』創樹社美術出版 2008年
伊藤之雄、李盛煥編著『伊藤博文と韓国統治 初代韓国統監をめぐる百年目の検証』ミネルヴァ書房 2009年 シリーズ・人と文化の探究- 安重根『安重根 仁の人、義の人、信の人』うのていお訳 愛知宗教者九条の会 2011年
- 『安重根事件公判速記録 復刻版』満洲日々新聞社編 龍溪書舎 2011年 韓国併合史研究資料
- 『図録・評伝安重根』統一日報社編 姜昌萬監修 日本評論社 2011年
早坂隆『愛国者がテロリストになった日 安重根の真実』PHP研究所 2015年
脚注
注釈
^ 死刑執行命令記録原本では年齢は33歳となっている。
^ 字は芬道(ブンド)。- ^ ab当時の朝鮮では女子名を記録する習慣がなかったので、一般には姓のみを記した。
^ マリアは洗礼名と思われる。
^ 旧暦では1879年7月16日。
^ 民族主義者または汎アジア主義者とも言う。自著『東洋平和論(序文)』では後者の主張を展開しようとしたと考えられている。安は開化派の流れを汲む天主教徒であり、華夷秩序を主張した旧守派および東学党、その後継たる天道教および一進会とは終生敵対したために、民族主義者としての立場は不明確で、生前に本人が明確に主張していたのは「韓国の独立」である親露派との関係性は不明。韓国の民族主義で象徴的な位置づけとなったのは、大韓民国の建国以後[2]。
^ 伊藤博文は、明治維新の元勲の1人で、日本の初代内閣総理大臣、同じく初代の枢密院議長、初代の韓国統監であるが、韓国統監はすでに退任しており、当時の地位は元老および3代目(2回目)の枢密院議長で、ロシア外相との外務折衝に向かった先で暗殺された[3]。
^ 上から重根・定根・恭根。女子名は不詳。
^ 兄弟は六男三女。上から泰鎮・泰鉉・泰勲・泰健・泰敏・泰純。三人の姉妹は女子名は不詳。
^ 朝鮮を清国の属国から脱しさせて、日本の力で近代化しようとした派閥。現在の韓国では親日派と見なされているが、安泰勲もこれに属していた。
^ 民包軍は守城軍とも言うが、朝鮮の官側に立った富裕層が主導とする民間の部隊で、乱の鎮圧にあたった官兵や日本兵を助けて、主に農民からなる民族主義的な東学軍の勢力を孤立させた。
^ 李氏朝鮮末期の政治家。当時は度支部大臣だった。
^ Nicolas Joseph Marie Wilhelm。
^ 自伝には具体的には書かれていないが“日本人の妨害”により失敗したとされ、日本政府の調査によれば、安秉雲と仲たがいしてこれ以上の出資を拒まれたため、安は秉雲を殴打し、さらに抜刀して脅迫で損害金を奪ったとされている。(伊藤公遭難事件調査報告書)
^ 自伝には、少なくともこの頃に国内で義兵闘争に加わっていたとは一言も書かれてない。
^ 崔才亨の女婿という。
^ 自伝では金起龍。日本政府の調査書によると字は燦淵。同調査および安の供述によると泰勳とも称したとされる。元は平壤警察総巡 (警部) から平安北道警務官 (警視)となった人物。- ^ ab本多熊太郎のいう金某と同一人物らしい。自伝では「金斗星」の漢字で書かれている。
^ 自伝にははっきりとは書いてないが、これが後に安が主張する「大韓義軍」である。自伝を読む限りにおいても、咸鏡北道からの退却ですでに解散状態であり、事件時にはすでに軍隊どころか武装勢力としての体裁もなしていない。
^ 日本の新聞では14名。
^ 安應七、金基龍、姜起順、鄭元柱、朴鳳錫、柳致弘、曹順応、黄吉秉、白南奎、金伯春、金天化、姜計讚。
^ 李珍玉とハン・ソンキン(漢字不明)という人物と言う。ただし安は後述の尋問において、李珍玉は日本語通訳だが無関係で、ハン・ソンキンなる人物は名前も聞いたことがないと答えている。
^ 崔鳳俊が創刊した新聞。明治40年に創刊したが直後に廃刊となったために、義兄弟の崔才亨が大東共報と名前を変えて創刊した。
^ 元極東憲兵隊長で予備役大佐、弁護士。暗殺事件への関与も疑われていたロシア人で、極東総督府の仲介者という説もあり。
^ 1909年当時の100円は、2013年時点換算で12万円ぐらいの価値。
^ FN ブローニングM1900とする説もあるが、証拠物件とは長さが異なり、コルト・ブローニングM1908とする説もある。安重根と禹徳淳が持っていたものは同型の色違いで、共に禹が用意したもの。逮捕時に曹道先が所持していたものは別の型。
^ 劉東夏の妹が金成白の弟の嫁という。
^ 長州閥の1人で伊藤の旧友。釜山領事やメキシコ公使も務めた外務官僚ながら、井上馨の口添えで1900年に第百十国立銀行の頭取に就任。1909年には随行員として伊藤に同行していた。1934年に貴族院議員。- ^ ab最初に4発、次に3発は、安本人の自伝による。ロシア当局の報告書では、最初に2発、次に1発、最後に3、4発を連射とされていて、妨害を受けずに冷静に発砲できた最初の3発がすべて伊藤に命中して、あとは全部外れたようである。
^ 新潟県出身。旧村上藩士の子。東京外国語学校ロシア語科卒でロシア語に堪能で、外務省のロシア関係担当。旅順開城の際には乃木大将とステッセル中将との通訳も務めた。伊藤に同行した際も通訳兼務で、事件では銃弾の破片が体内に残り、後日手術を受けたが回復した。
^ ただしほとんどは衣類に穴を開けただけで、室田自身は小指に怪我をしたのみだった。
^ 森槐南は、官僚や政治家ではなく、漢詩人であり、漢詩の好きな伊藤の相手をするために秘書官となっていた。このハルビンへの道中でも伊藤と二人で作詩している。
^ 後に間島総領事館警察部長。「博文寺での和解劇」でも主導的役割を果たす。
^ 回顧では、統監となっているが、前述のようにすでに四か月前に伊藤はこの職を退任していた。
^ 日本の新聞紙面では何人かの漢字が間違っていた。出典の新聞にある氏名は、曹道元→曹道先、禹連俊→禹徳淳、卓公套→卓公圭、金盛玉→金成玉、柳江露→劉東夏が正しい。
^ 陸軍中将真鍋斌の養子、実父は磯村応。両名とも元長州藩士で長州閥に属す。男爵。当時、関東都督府地方法院判官。
^ 七カ条ノ条約のことで、一般的にはこのような呼び方はしないが、前項の五カ条を合わせて十二カ条と考えていたようである。
^ 儒教思想によるもので文字通りの意味は「正義のために起こす兵」のこと。13世紀のモンゴル軍侵攻や16世紀の豊臣秀吉の文禄慶長の役など、特に外敵に対して民衆が非正規軍として蜂起することを朝鮮では義兵と呼ぶことが多い。
^ しばしば“正義の兵士”の意味で使われるために、単にテロ行為の正当性を述べているだけか、実在する組織をさしているのか解し難いところで、彼の論説のなかでもその部分は極めて曖昧である。
^ これは日本人の社会主義者等の裁判でも同じであり、当時の法廷の一般的な慣行。特に安だからというわけではない。
^ 曹道先も通訳であり計画は知らなかったと劉東夏と同じ供述したが、実際には彼は大東共報での議論の場に参加しており、計画は知っていたし、逮捕時には武器も所持していた。
^ 参考文献に記した自伝と同じもの。日本では「獄中記」、韓国では「安応七歴史」と呼ばれている。
^ 処刑日前の2、3日は何も書かなかったと伝えられる。
^ 父と面識がなかった俊生ではなく、長男の芬道のことで、彼は数年後に12歳でロシアで没している。
^ 山本権兵衛が反対したという時期や経緯は詳しく書かれていない。- ^ ab義兵運動(当時の日本政府の表現では排日運動)の代表的な活動家で、最年長であったためにロシア当局が在留韓国人の総取締とし、排日思想を論調とする大東共報の創刊者だったことから、日本政府は運動の指導者と見なしていたが、実態は李東輝が指導者と言い、その片腕だった。シベリア出兵をしていた日本軍が、1920年4月4日にウラジオストクの新韓村を襲撃した際、ニコリスクで多数の同志らと共に射殺された。(四月惨変)
^ 独立運動家申采浩の言葉と信じられてきたが誤りである。チャーチルやジョージ・サンタヤーナ、ムハンマド・フサイン・ハイカルなど諸説ある。
^ 『父のいた日々』などの著作がある。
^ ハーグ条約では単に非戦闘員だが、後のジュネーヴ条約にはさらに厳しい規定と禁止事項がある。
^ 安が拳銃を隠し持って群衆にまぎれて接近したのならそれも違反で、戦闘員と認めるのは難しい。
^ 当時は大韓帝国の少尉。キリスト教徒で、箕明学校の教師でもあった。後に大韓民国臨時政府の軍務次長。
^ ハーグ密使事件の3人の密使の1人。
^ 夏目漱石も元首相の暗殺には驚愕しつつも、安は独立活動家であるとその動機を判断していた。ただし被害者の1人である中村是公は漱石の親友でもあり、漱石は植民地民に対して同情は示さずに、事件も批判的にとらえていた。(「韓満所感」、「満韓ところどころ」も参照)
^ 日本が1人の朝鮮人を殺せば10人の義兵が決起する、10人の朝鮮人を殺せば100人の義兵が決起するという意味で、自分を含めた自己犠牲によってさらに同胞が決起するだろうという趣旨の発言。
^ 1人が自らの命を捨てて1人の要人を暗殺すれば、万民が救われる。一つの殺人で、一切を救わんとする一殺多生という教え。
^ 大韓帝国総理李完用の暗殺未遂犯。
^ 韓国併合の方針は、すでに暗殺前に日本で閣議決定していた。(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 1909年7月6日)。伊藤には朝鮮は保護国に留めるべきという日露戦争以前からの腹案があったが、決定に至る過程で主張を取り下げており、閣議決定にも反対しなかった。このため併合と伊藤の死には直接の因果関係はないが、一進会が安の裁判中の1909年12月6日に日韓合邦運動を起しており、もともと期日も未定だった併合をより早く実現するために事件を政治的に利用する動きがあった[117]。
^ この地域は現在も少数民族として朝鮮族が居住しているほか、韓国人も外国人として在留している[137]。
^ 伊藤博文の同郷の河野道友という人物の娘で、事件直前に伊藤からもらった、李皇太子と伊藤が写った写真を持参。
^ 「内鮮融和運動」は宇垣一成総督が推進した朝鮮人の皇民化計画で、後を継いだ南総督はそれをさらに推し進める立場だった。
^ 金九の長男の金仁は、安重根の姪の安美生と結婚しており、姻戚関係にあった。このために安俊生が内鮮一体に賛同したことは、彼とっては(金九の家長的権威の無視であって面子を潰されたことになるので)家族的な大問題であり、許されざる行為であった。
^ 満州事変時に陸軍大臣。後に関東軍司令官。戦後、A級戦犯として終身刑になった。内鮮一体、創氏改名は彼の代で提唱されたもの。個人的には穏和で誰にでも人当たりの良い人で、安俊生らとの面会でも気さくに振る舞ったことが記されている。
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参考文献
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- 伊藤暗殺事件関連
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室田義文翁物語編纂委員(編) 国立国会図書館デジタルコレクション 『室田義文翁譚』 常陽明治記念会、1939年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1217103/145 国立国会図書館デジタルコレクション。
上垣外憲一 『暗殺・伊藤博文』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2000年。ISBN 4480058680。
大野芳 『伊藤博文暗殺事件 闇に葬られた真犯人』 新潮社、2003年。ISBN 4103904054。
高田義一郎、国立国会図書館デジタルコレクション 「伊藤博文」 『兇器乱舞の文化 : 明治・大正・昭和暗殺史』 先進社、1932年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1062338/124 国立国会図書館デジタルコレクション。
朝鮮総督府(編)、国立国会図書館デジタルコレクション 「伊藤博文暗殺事件判決」 『朝鮮独立思想運動の変遷』 朝鮮総督府法務局、1931年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1907569/49 国立国会図書館デジタルコレクション。
坂井邦夫、国立国会図書館デジタルコレクション 「伊藤博文」 『明治暗殺史 : 新聞を中心として』 啓松堂、1933年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281115/163 国立国会図書館デジタルコレクション。
- その他
春川延吉 『我が心の祖国、朝鮮上巻』 文芸社、2005年。ISBN 4286005801。
関連項目
- 義兵
- 第三次日韓協約
- 一進会
- 韓国併合
富川市 - 安重根公園がある
外部リンク
- 伊藤博文射殺犯・安重根(アン・ジュングン)の小伝
伊藤公遭難事件調査報告書(国史編纂委員会)- 七条清美関係文書79「安重根伝記及論説」の紹介(国立国会図書館)
- 歴史に背く韓国]第二の安重根が生まれる日、早坂隆(ノンフィクション作家)拳骨拓史(作家)対談